日本人は猿に戻るつもりか?改めて考えるエネルギー

原油価格が一気に半分に下がった。昨年6月に1バレル107ドルをつけましたが、今年1月には45ドルにまで急落し、現在は50ドル程度であるが、上がるのか下がるのか、まだまだ予断は許すまい。このような状況で改めて日本のエネルギーの行く末を考えたい

前提条件が変わった

原油安の原因として有力視されているのはサウジアラビアによるシェール潰しと言われている。もしそうであれば原油も他の商品市場のように投機筋や限られた供給者の思惑に左右される不健全な市場ではなくなりつつ事を示している。これは日本にとってエネルギーの安定供給にはこれ以上無い福音である。

原油市場の健全化には原油の産地であるとか在来型か非在来型かのみならず、他のエネルギーとの競争も欠かせない。電力であれば既に原子力・石炭・天然ガス自然エネルギーなどが存在してるが、自動車は天然ガス自動車電気自動車を除いてほぼ石油に頼っている。

必要なのは水素自動車の普及

そこに別のチャネル、すなわち水素自動車の普及が欠かせない。というと、なぜか原子力容認派の人達から「課題が多すぎて現実味がない」だとか「エコロジーではない」ととかく否定的な反応をされることが多い。しかし、水素自動車の普及の意義は自動車の脱石油化であり、水素さえできればそのエネルギーは何でも良いという多様さである。

川崎重工は豪州の褐炭という未利用資源を改質して水素をつくり日本に運ぼうとしている。出来るCO2は地中に戻して封じ込める。マスコミ報道では「自然エネルギーで生まれた電気を水を分解してこそ」と言われるが未利用エネルギーの活用の方が本命であろう。

もっとも、マスコミの報道はHV→EV→クリーンディーゼル→FCVとボージョレヌーボのように毎年「究極のエコカー」がかわるので来年にはダイハツウェイクのCMのように車のボディに自転車をくっつけたのが「ナウい」と言い出すのかも知れないがw

今だからこそ石油への投資を怠るな

2012年の民主党政権下で策定された、「革新的エネルギー・環境戦略」によると2030年の一次エネルギー供給量の76~83%と圧倒的な量を引き続き化石燃料に依存することとされている。(図1)

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図1 引用元:水素社会を拓くエネルギー・キャリア(2) | NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Institute

 

もちろん自然エネルギー由来の水素技術の開発普及次第ではあるが、実際には原子力フォビアの世論が根強く、また経済の成長から石炭が発電比率の5~6割程度に増え、原子力は目標こそ思ったよりも高けれど、実際には世論と規制の壁に挟まれほぼ0に近づくように思えてならない。

このような状況ではますます化石燃料の重要性は増している。更に言えば天然ガスの多くは石油と一緒に採掘される余り物であるし、資源価格は石油に連動しており、相関関数は石炭で0.912、ウランで0.808(2010年までは0.852)天然ガスは0.941と極めて高い相関である。(図2)

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図2 単位は、LNGがUSドル/100万BTU、ウランがUSドル/ポンド、原油がUSドル/バレル、石炭がUSドル/トン

 

既に減少した石油への投資から2040年には石油不足を指摘する声が出るなど、既に次の石油高騰への種は蒔かれつつある。日本に必要なのは投資の最後の担い手として果敢に石油に投資することだろう。

思うに日本のエネルギー政策はベストミックスとは聞こえが良いが、問題があればそのエネルギーから逃避する施策であったように思えてならない。でなかったとしたら、中国にばかりODAを投じたり、ホムルス海峡を迂回するパイプラインへの投資やパラオに巨大な備蓄基地を建設するなどのシーレーン分散策が取られていない事が理解に苦しむのである。

そして、今でも原子力に真正面から取り組む姿勢が全く見られていない。このような青い鳥探しをしていたら日本は最後には江戸時代どころか火を捨て猿と同じ暮らしに戻らざるをえなくなるのではないか。

もはや逃げは許されない。

阪神大震災と「語り継ぐ」違和感

きょうは二本立てで。

昨日は、阪神大震災から20年。先日開かれた神戸市での成人式で新成人が「私たちは震災を知る最後の世代」と語っていたらしい(伝聞)のだけど、記憶にあるのは最低でもおそらく5歳くらい上の人達。

奇しくも、艦これ関係のTwitterのフォロワーに彼らと同い年の自家製さんという方が居るのですが、彼女のつぶやきがリアルなのだと思います。

で、そうなってくると当然持ち上がってくるのが「語り継ぐ」とか「風化されてはならない」とかいう話。オーラルヒストリーをまとめるとか、経験を元に新たな設計をするのかという話なら分かるけど、マスコミや左翼団体の言う「語り継ぐ」というのは「戦争を語り継ぐ」というのと同じニュアンスとしか思えないのです。

今でも、テレビでは8月15日になったらバカの一つ覚えのように何ら新鮮味の無い終戦特集が組まれてるけど、あれがどこまで「真の平和」に繋がっているのか甚だ疑問で、厭戦感を煽るドラマよりも外交努力を磨く方がより「真の平和」に繋がるのか疑問です。

震災でも、「語り継ぐ」よりも「防災のための公共事業にもっと予算をつぎ込むべき」と言った方が本当に身柱のためになると思うし、実際東日本大震災では阪神中越の経験が生きて高架橋の補強が進んだ結果、地震に被害が最小化された実例があるのです。

というと、ハードの対策には限度がある、ソフトも大事と言われるかも知れないけど、そういう人に限って軍政下の韓国のように毎月全国レベルの訓練をやったり、真夜中に住民参加の避難訓練でもやるべきとまで主張されている方は見られないし、そもそもソフトの対策というならどれだけ家具やテレビを固定されておられるのか?甚だ疑問なのです。

これに限らず「語り継ぐ」人々は殊更に「命が大事だ」という傾向にありますけど、偽善としか思えてなりません。もっと物理的な者を求めるのが国の仕事だと思うのですが・・・。

愛媛FCの粉飾決算と衰退する地域でプロスポーツを運営する難しさ


愛媛が粉飾決算…12、13年度は赤字だった - サッカー - SANSPO.COM(サンスポ)

今月16日、プロサッカーチーム「愛媛FC」過去二年間にわたり粉飾決算を行ったことを発表した。
Jリーグは、ライセンス制度を取り入れており赤字が三期続けばライセンスが取り入れるために赤字を黒字と粉飾していたのだ。
とはいえ、粉飾は2012年と2013年の決算に限られ一応は2014年の決算は「黒字」となるので赤字が理由でのライセンス剥奪は回避されたが、粉飾決算を理由とするライセンス剥奪の可能性も含め厳しい処分も予想される。
 


時事ドットコム:愛媛、1億円の粉飾決算=ライセンス剥奪は「回避」−J2

 しかし、ライセンスが回避されないという観測もある。これが事実ならサッカー界は赤字よりも粉飾決算という経済犯罪の方が罪が軽いと考えてることになる。我々はスポーツ界の不祥事を通じ如何にスポーツ界が世間の常識とかけ離れ、時にマスコミがそれに荷担してきた事実を見せつけられた。
しかし、そうした事実はスポンサー場慣れに直結する。Jリーグは今季から明治安田生命をスポンサーに迎え正式名称を「明治安田生命Jリーグ」とすると発表したばかりだ。そうした努力を水泡に帰しかねない。

そもそも「地域密着」という理念に無理は無かったのか?地域密着の土台となる「地域」は20年続いたデフレ経済で、いやそれ以前から過疎化や経済発展から取り残され衰退の一途を辿っている。そうした惨状にこれまでの政治はあまりに無力かつ無為無策だったし、JFAも現実を無視し続けた。

経済力の弱い地方でプロサッカーチームを根付かせるとすれば米国のMLSのようにドラフト制度を取り入れたり、選手の給与を機構から支払うシステムを取り入れるなどリーグを一つの会社と見立て全体で繁栄するという考えを持つか、マンチェスター・ユナイテッドレアルマドリードのような世界的なビッグクラブを育てそのトリグルダウンで地域のクラブを運営していかなければならない。しかしそうした運営方針は「去る者は追わず」というドライさも合わせている。現に欧州の弱小サッカーチームは経営破綻の話がしばしば聞こえてくる。

今回の事件は小手先では無い抜本的な改善策をJリーグが求めていることを如実に示している。

ベイマックスと日本アニメ終了論

「『ベイマックス』を見て、日本のアニメは終わった」と悲観している人が続出しているようで。
そもそも「日本アニメは作家主義」などと言われてますが、日本アニメでも子供向けホビーアニメは、玩具メーカーが企画を主導した集団指導的な作品づくりがなされており、例えば『プリキュア』シリーズや『アイカツ!』などにおいて個々の作家性について言われることは余り聞きません。
このように作られた国が問題なのでは無く、商業化が進んでいるかどうかが問題なのでは無いでしょうか?ディズニーアニメは多額の資金が投入されたまさに一つの産業で有り、失敗が許されない以上は「作家性」という曖昧で不確実な物への依存は避けられておりますし、日本でも先ほどあげたホビーアニメの他にも、視聴者のスタッフに対する感心が高いはずの深夜アニメのヒット作であっても監督や演出家の作家性が注目されていない作品もあるのです。
日本アニメの象徴になっているスタジオジブリは確かに作家主義の極地なのですが、そもそも生い立ち自体が「宮崎駿高畑勲の個人スタジオ」という色彩が強く、そうした事情を知らない人やジブリブランドを利用したいマーケットの都合において「脱宮崎駿スタジオジブリ」が殊更に喧伝されてきたわけですが、結局余り上手くいかずに制作部が閉鎖に至ったわけです。
「誰が作っても一定のクオリティと一定のヒット」を望める作品をつくるスタジオとしてジブリは確かにブランドは満たしていても体質が完全に相容ず、ジブリじゃ無く1からブランドを立ち上げる方が簡単かつ確実だと思います
おそらくジブリが脱職人主義に転換するには20年遅かったのですが、そもそも「日本アニメは滅びた方が良い」と公言するような宮崎監督がアニメの産業化・商業化に舵を切るとは思いませんがね。

今改めてリベラルについて考える

リベラルとは?

このテーマを年が明けた今だからこそ改めて考えてみたい。
元日、内田樹氏がこのような発言をされていた。

私たちの国は『滅びる』方向に向かっている。(中略)この先我が国は『栄える』可能性は無い。

 この発言を聞いて思ったことは後世への無責任さと、「滅びの美学」への憧れを感じ取ったのだ。このような無責任な発言をするくらいならまだ「日本が生き残るためは移民を1000万人くらい受け入れよ」と主張する人々の方がまだ日本の未来への可能性を少しでも信じている分、マシだと思えるのだ。

 この内田樹という人が何をしている人なのかとWikipediaで調べてみると、

日本の哲学研究者、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部卒業。

 とある。

 一応氏は、神戸女学院という学校の先生なので、それが主たる収入なのだろうけど、とてもじゃないけど氏の発言や経歴からは実態社会に足をつけて生きているという感じが感じられない。

 こうした浮き世離れした感じは内田氏に限らず、新聞社やテレビのコメンテーターのような「お偉いさん」に共通して言えることである。しかし、リベラルという立場が全員「お金持ち」であるかというと、末端で「市民活動」に従事する人達は貧しくいも多いと聞く。このような格差を見ると、まるでマスコミ上層部や教授という「組長」を「長」とする暴力団と同じシステムでは無いのか。「民主」と「平等」を掲げる彼らが暴力団のようなシステムを築くことは実に皮肉な話では無いか。

 この皮肉さは、天皇制に対するスタンスにも良く現れてる。昨今の彼らは天皇陛下のお心を勝手に代弁したり、自らの勢力に天皇陛下を引き入れようと必死になっているように映る。

 日本国憲法は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」と謳っており、天皇尊重は護憲を掲げる以上は当然のことではあるが、かつて社会主義を掲げていた彼らが天皇陛下の権威に縋りだしたのは何故なのか?
私はそれこそが日本の思想・言論の問題点の根本では無いかと思う。自民党は結党以来自主憲法の制定を問うぜとしてきた。これは憲法をイシューにすれば「現状を変えるべきである」と考えてる現れである。つまり、「保守」を標榜する政党が「革新」を訴え、「革新」を標榜する政党が、こと憲法では「保守」なのである。

 「革新」が「保守」なのは憲法に限ったことでは無い。こと組織のあり方ではリベラルは大変に保守的である。そもそもリベラルという地位は放送免許や戸別宅配制度、あるいは大企業や公務員の正職員対象の労働組合の存在が前提に組織が作られている。共産党も然りで、何時までも党名を改名しないし、未だに赤旗と党費によって党が運営されている。

 政策も昨今の西洋のリベラリズムが掲げる、同性婚安楽死、移民などの是非について付け足し程度に公約に掲げることはあっても、メインイシューは未だに昭和で止まったかのような左翼的な主張と、反自民的な主張によって塗り固められている

 このような有様では、後継者の確保もおぼつかない。各党は若者への配慮を打ち出しているが、その「若者」が中高齢者の考える若者であり、「若者対策」として非正規社員批判を掲げているが、実際には中高齢者が非正規雇用の主役である、単純な正規社員重視策は中高齢者を利することにも繋がりかねないのだ。

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図:雇用形態別雇用者の年齢分布(出典:厚労省ホームページPDF)

 結局、日本には「リベラル」という建設的な主張をしなくても「階級」が社会システムに組み込まれており、それが機能不全に担った今でもそれらに変わるシステムを生み出せていないのである。人間は高齢になれば保守的になると言われているが、今のリベラルの主張は断末魔のようにしか聞こえないのである。

日本アニメと価値観の断絶と政治的正しさ

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

さて、ある人がこのような発言をしていた。

「最近のディズニー作品は日本アニメの得意とする『深みのあるストーリー』を取り込んでいる。日本のアニメもディズニーのようにポリティカルコネクトネス(政治的な正しさの意。以下PC)に沿った作品作りをしていかなければならない」と。

そもそも米国の作品は「大味な勧善懲悪」で日本のそれが「深みのあるストーリー」というのはステロタイプに過ぎないのでは無いか。

 例えばハリウッドでは、1960~70年代にかけて「アメリカン・ニューシネマ」が隆盛を誇ったし、逆に日本から世界に羽ばたいたアニメを見るとシンプルな勧善懲悪を貫く作品が多く、『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品の方が例外では無いのだろうか。

そもそも文化の違う国に作品を発表するためにはローカリゼーションという作業が必須であり、それがPCが「文化」としてある国であれば、PCに対する配慮は当然だろう。しかし、これらの発言は日本のアニメは海外への輸出を前提にして、ディズニーと対抗しなければならないというコンテキストと表裏一体なのだろうがその前提は怪しい。

 日本のアニメの海外への輸出は現在、「クールジャパン」という国策ともなっているが、評判は著しく悪い。それは私が思うに今の日本のアニメは「価値観」の違いを受け入れなくなっているように思えるのだ。逆に人種が違っていても「同志」であれば受け入れ、共感や感動を与えるが逆に日本人同士ですら価値観が違えば、全く共感を与えない。

 本来ならば、物語は価値観を持った人を超越し感動を与える。通常であれば人種の違いは別の価値観である。しかし、今の日本のアニメは価値観の違いに対する訴求力を失っているように思えるのだ。もちろん、肌や人種が違えど同じ価値観を持つと言うこと事態は大変に素晴らしいが、本来であれば価値観を乗り越える物が価値観を乗り換えられないというのは物語の危機では無いのだろうか。

 かつてタツノコプロが『世界のファミリーに夢を』という経営理念を掲げたり、世界名作劇場が海外への輸出という野望を掲げ、夢や野望を実現していった。そうしちた夢や野望が再び日本アニメ界に現れたときに自ずとPCに配慮した日本アニメが産まれるのでは無いだろうか。

出光シェル買収と石油見直し

石油会社は石油だけでは立ちゆかないとかなり前から言われているのだけど、脱石油で比較的手っ取り早いのは天然ガス。なんせ気化施設は余ってる製油所を転用できるしそこには大抵火力発電所があるから安定した販路がある。

というわけで、JXやコスモや東燃が電力会社やガス会社と共同で気化基地を運営していたりするけど、出光とシェルは大手元売りの中では天然ガスへの取り組みが比較的遅れてる感があるので、割と納得する組み合わせではある。

しかし、日経新聞が書いていた「再編は最終章」ってのは割と疑問。今後はガスも電気も完全に自由化するので例えば石油会社・ガス会社・電力会社(の火力部門)という組み合わせが、それも新規事業者じゃ無く例えばJX・東京ガス・関電という大手同士の組み合わせも充分あり得るので、これは再編の始まりだと思う。

ただ、石油会社の再編というのは震災前から続く国主導の縮小均衡策という要素が強いわけだけど、国の方針は「原発は出来るだけ減らしたい」というもので有るなら石油の役割は「ポスト原発」を考えるに当たって見直して行かざるを得ないし、ライフラインとして位置づけと言うことを考えても縮小均衡はもはや限界に来ているとは思う。

身も蓋もない言い方をすれば「どう石油を使って貰うか」を考えて貰う必要があるとも言えるのだけど、そもそもいくら石油会社が「震災で証明された有事に強い石油」「備蓄しやい石油」と石油のメリットを訴えても、とりつく島も無い上に、産油国と投機家の思惑で幾らでも値段が乱高下するありさまではもはや原子力以下の信頼性と言わざるを得ず、いくら高効率化した技術を開発しても一筋縄には行かないだろう。