日本アニメと価値観の断絶と政治的正しさ

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

さて、ある人がこのような発言をしていた。

「最近のディズニー作品は日本アニメの得意とする『深みのあるストーリー』を取り込んでいる。日本のアニメもディズニーのようにポリティカルコネクトネス(政治的な正しさの意。以下PC)に沿った作品作りをしていかなければならない」と。

そもそも米国の作品は「大味な勧善懲悪」で日本のそれが「深みのあるストーリー」というのはステロタイプに過ぎないのでは無いか。

 例えばハリウッドでは、1960~70年代にかけて「アメリカン・ニューシネマ」が隆盛を誇ったし、逆に日本から世界に羽ばたいたアニメを見るとシンプルな勧善懲悪を貫く作品が多く、『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品の方が例外では無いのだろうか。

そもそも文化の違う国に作品を発表するためにはローカリゼーションという作業が必須であり、それがPCが「文化」としてある国であれば、PCに対する配慮は当然だろう。しかし、これらの発言は日本のアニメは海外への輸出を前提にして、ディズニーと対抗しなければならないというコンテキストと表裏一体なのだろうがその前提は怪しい。

 日本のアニメの海外への輸出は現在、「クールジャパン」という国策ともなっているが、評判は著しく悪い。それは私が思うに今の日本のアニメは「価値観」の違いを受け入れなくなっているように思えるのだ。逆に人種が違っていても「同志」であれば受け入れ、共感や感動を与えるが逆に日本人同士ですら価値観が違えば、全く共感を与えない。

 本来ならば、物語は価値観を持った人を超越し感動を与える。通常であれば人種の違いは別の価値観である。しかし、今の日本のアニメは価値観の違いに対する訴求力を失っているように思えるのだ。もちろん、肌や人種が違えど同じ価値観を持つと言うこと事態は大変に素晴らしいが、本来であれば価値観を乗り越える物が価値観を乗り換えられないというのは物語の危機では無いのだろうか。

 かつてタツノコプロが『世界のファミリーに夢を』という経営理念を掲げたり、世界名作劇場が海外への輸出という野望を掲げ、夢や野望を実現していった。そうしちた夢や野望が再び日本アニメ界に現れたときに自ずとPCに配慮した日本アニメが産まれるのでは無いだろうか。