今改めてリベラルについて考える

リベラルとは?

このテーマを年が明けた今だからこそ改めて考えてみたい。
元日、内田樹氏がこのような発言をされていた。

私たちの国は『滅びる』方向に向かっている。(中略)この先我が国は『栄える』可能性は無い。

 この発言を聞いて思ったことは後世への無責任さと、「滅びの美学」への憧れを感じ取ったのだ。このような無責任な発言をするくらいならまだ「日本が生き残るためは移民を1000万人くらい受け入れよ」と主張する人々の方がまだ日本の未来への可能性を少しでも信じている分、マシだと思えるのだ。

 この内田樹という人が何をしている人なのかとWikipediaで調べてみると、

日本の哲学研究者、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部卒業。

 とある。

 一応氏は、神戸女学院という学校の先生なので、それが主たる収入なのだろうけど、とてもじゃないけど氏の発言や経歴からは実態社会に足をつけて生きているという感じが感じられない。

 こうした浮き世離れした感じは内田氏に限らず、新聞社やテレビのコメンテーターのような「お偉いさん」に共通して言えることである。しかし、リベラルという立場が全員「お金持ち」であるかというと、末端で「市民活動」に従事する人達は貧しくいも多いと聞く。このような格差を見ると、まるでマスコミ上層部や教授という「組長」を「長」とする暴力団と同じシステムでは無いのか。「民主」と「平等」を掲げる彼らが暴力団のようなシステムを築くことは実に皮肉な話では無いか。

 この皮肉さは、天皇制に対するスタンスにも良く現れてる。昨今の彼らは天皇陛下のお心を勝手に代弁したり、自らの勢力に天皇陛下を引き入れようと必死になっているように映る。

 日本国憲法は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」と謳っており、天皇尊重は護憲を掲げる以上は当然のことではあるが、かつて社会主義を掲げていた彼らが天皇陛下の権威に縋りだしたのは何故なのか?
私はそれこそが日本の思想・言論の問題点の根本では無いかと思う。自民党は結党以来自主憲法の制定を問うぜとしてきた。これは憲法をイシューにすれば「現状を変えるべきである」と考えてる現れである。つまり、「保守」を標榜する政党が「革新」を訴え、「革新」を標榜する政党が、こと憲法では「保守」なのである。

 「革新」が「保守」なのは憲法に限ったことでは無い。こと組織のあり方ではリベラルは大変に保守的である。そもそもリベラルという地位は放送免許や戸別宅配制度、あるいは大企業や公務員の正職員対象の労働組合の存在が前提に組織が作られている。共産党も然りで、何時までも党名を改名しないし、未だに赤旗と党費によって党が運営されている。

 政策も昨今の西洋のリベラリズムが掲げる、同性婚安楽死、移民などの是非について付け足し程度に公約に掲げることはあっても、メインイシューは未だに昭和で止まったかのような左翼的な主張と、反自民的な主張によって塗り固められている

 このような有様では、後継者の確保もおぼつかない。各党は若者への配慮を打ち出しているが、その「若者」が中高齢者の考える若者であり、「若者対策」として非正規社員批判を掲げているが、実際には中高齢者が非正規雇用の主役である、単純な正規社員重視策は中高齢者を利することにも繋がりかねないのだ。

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図:雇用形態別雇用者の年齢分布(出典:厚労省ホームページPDF)

 結局、日本には「リベラル」という建設的な主張をしなくても「階級」が社会システムに組み込まれており、それが機能不全に担った今でもそれらに変わるシステムを生み出せていないのである。人間は高齢になれば保守的になると言われているが、今のリベラルの主張は断末魔のようにしか聞こえないのである。