阪神大震災と「語り継ぐ」違和感

きょうは二本立てで。

昨日は、阪神大震災から20年。先日開かれた神戸市での成人式で新成人が「私たちは震災を知る最後の世代」と語っていたらしい(伝聞)のだけど、記憶にあるのは最低でもおそらく5歳くらい上の人達。

奇しくも、艦これ関係のTwitterのフォロワーに彼らと同い年の自家製さんという方が居るのですが、彼女のつぶやきがリアルなのだと思います。

で、そうなってくると当然持ち上がってくるのが「語り継ぐ」とか「風化されてはならない」とかいう話。オーラルヒストリーをまとめるとか、経験を元に新たな設計をするのかという話なら分かるけど、マスコミや左翼団体の言う「語り継ぐ」というのは「戦争を語り継ぐ」というのと同じニュアンスとしか思えないのです。

今でも、テレビでは8月15日になったらバカの一つ覚えのように何ら新鮮味の無い終戦特集が組まれてるけど、あれがどこまで「真の平和」に繋がっているのか甚だ疑問で、厭戦感を煽るドラマよりも外交努力を磨く方がより「真の平和」に繋がるのか疑問です。

震災でも、「語り継ぐ」よりも「防災のための公共事業にもっと予算をつぎ込むべき」と言った方が本当に身柱のためになると思うし、実際東日本大震災では阪神中越の経験が生きて高架橋の補強が進んだ結果、地震に被害が最小化された実例があるのです。

というと、ハードの対策には限度がある、ソフトも大事と言われるかも知れないけど、そういう人に限って軍政下の韓国のように毎月全国レベルの訓練をやったり、真夜中に住民参加の避難訓練でもやるべきとまで主張されている方は見られないし、そもそもソフトの対策というならどれだけ家具やテレビを固定されておられるのか?甚だ疑問なのです。

これに限らず「語り継ぐ」人々は殊更に「命が大事だ」という傾向にありますけど、偽善としか思えてなりません。もっと物理的な者を求めるのが国の仕事だと思うのですが・・・。