今の日本で何が一番豊富にあるのか?「知価社会」
堺屋太一の代表作とも言える著書で、1985年の書とは思えないくらい先見性のある筆致である。
堺屋はこの本で「豊富な物をたくさん使うことが格好いいと感じる美意識」と「不足するモノを節約することは正しいと感じる論理感」が人間には備わっていると指摘している。
堺屋が予言したとおり、今、最も豊富なものと言えば情報すなわち知恵であり、堺屋の予想を大きく上回るほど発達し、豊富にある物となったのはコンピュータの膨大な計算資源である。
考えてみれば、10年前のパソコンに匹敵するようなコンピュータを、我々はスマートデバイスという形でいくつも身につけ、家庭でもそうした物をいくつも持っているというライフスタイルを送っている。例えばディープラーニングは、インターネット上で容易に手に入るデータをコンピューターに食わせて、膨大な計算資源を使ってパターンを見つけさせるし、例えばビットコインはその発掘の為だけに膨大な計算をコンピューターにさせているおり、ビッグデータの世界ではテラバイト・ペタバイトなんていう、10年前ではとても想像もつかないような単位がビジネスで当たり前のように活用されている。
そうした業種が最先端と見做されるのは、まさに「豊富な物をたくさん使うことが格好いい」という本能的に抱く価値観の発露に他ならない。
さて、これまでの20年間は人余りの時代と言われていた。つまり人をたくさん使うことが格好良い時代だったのだ。しかもグローバル化やインターネットの普及で製造業や場合によっては情報処理の分野においても中国や東南アジアの人もわざわざ日本に連れて行かなくても使える(場合もある)時代が来た。
まさに空前の人余り時代である。この20年間で良く伸びたとされる産業はいずれも飲食やファストファッションといった労働集約型産業である。
芸能や娯楽の世界でもとりわけ女性アイドルなんてものは、松田聖子や中森明菜といったソロアイドルの時代から、おニャン子クラブという例外こそあったが、徐々にアイドルはグループで売る時代になり、5人組のSPEEDというグループが出てきた。そして、モーニング娘。が10人を突破した頃には常識外れに多いと人々は受け止めた物であるが、AKB48とかいう数百人グループが一世を風靡する時代となり、現在は坂道シリーズ*1の時代である。
とはいえ、戦前のように金持ちがこぞって、書生やお手伝いさんを何十人も雇うなんてことは無くなった。理由は簡単でそうするには人件費が掛かりすぎるのである。
ストック活用論は本当か?
近年の政策を見ていると「内部留保を活用」してだの「空き家を活用して」という話を良く聞く。ストックが豊富という意識の元で、「ストックをたくさん使うことが格好いい」という美意識が随分と根付いたように思える。
そうした美意識では、「ストックはたくさん持ち続けて活用してすること」が格好いいものであり、例えば維新が大阪がやってるように府と市の施設を統合したり、自治体の財産を売却するなどのストックを削る行為は「ケチくさい」行いの最たる物で、府と市の施設を共存させることが格好いいことなのだろう。
ところが、見方を変えて当事者になれば、ストックの内の一つである金なんてあればある程よいと考えるし、労して手に入る物だとか、使えばなくなる資源であると考えれば「節約することは正しい」と考え始めるのは人間の心理だ。財務省の役人にしても現状の医療制度の維持でアップアップなんだから感染症に金を使えなんて、消費税を15%に上げても足りないと思っているだろう。
あるいは、予測不能なことは幾らでも起こるし、企業買収なんて外国企業は1兆円なんて金を平気で投じるのだから、金は使わないで取っておくべきと考えるだろう。
更に言えば、そもそも得てしてそうしたストックは帳簿の上の話だったり、高度成長期の時代に大量供給されたものがストックとして活用するに足るかって話は無視されがちで、ストック活用論というのは物質的に見えて、その実実態性の無いバーチャルな話であり、ストック活用論というのは情報の産物であろう。
物質への限界と、物質を否定できない矛盾の中で
堺屋は古代は物質が豊富にあった時代でありその世の中は現代と似ているが、次第にフロンティアが無くなり、当時の資源であった木材を切り尽くした中世の時代は、物質不足で、時間が豊富にあった時代であると指摘する。そうした世の中では物質的な充足ではなく精神的な充足が求められるというのである。そのような時代では「物事を正確に観察しなくなり、自らの心の中に浮かぶ想像や社会的に信じられている架空の話を重視するようになった」((Kindle版No.2052))のだという。
物質重視・科学万能の世の中に生きる我々には到底信じられず、また耐えられもしない話であるが、考えてみたら現在の我が国の労働者人口は5660万人(2019年)と言われており、国民の過半数は労働に従事していないことになる。
そのような、人々にとって一番「何が豊富か」と言えばまず時間であり、数字と現実の観察よりも精神的な世界、すなわち「自らの心の中に浮かぶ想像や社会的に信じられている架空の話」に感心が向き、政治も数字よりも庶民感覚が持て囃され、原子力発電所の停止や市場移転延期のコストよりも一時の感情が意志決定を左右するようになってもおかしくないのである。
実際堺屋自身も2007年のインタビューで、「1960年代には『堺屋君の議論は感情的』と言われたのに、20年後には『君の言っていることは数字だ』」と批判されたと指摘している。*2
しかしながら、普段、感情論を剝き出しにする人でも労働問題では「最低時給1500円」とか比較的具体的な数字を出して来たり、あるいは「今の若者は車も買えない」と嘆く人も多いが、それらは「物質への欲求」そのものであるが、「物質への欲求」が科学を生み、それに生かされてる以上は我々は物質を完全に否定することが出来ない。
外国では「地球は平面」だの「進化論は嘘」だのと言う人が結構居るが、日本人ではいくらワクチンを否定して、自分の正しい物を正しいと信じる人でも地球は平面と言う人は殆ど居ない。世代を超えて受け継がれるほどに高度工業社会での日本の成功体験は強烈であり、「物質社会」と「精神社会」との折り合いに苦悶しているのが、今の実態であろう。
堺屋の指摘する「文明の『犯人』」である「技術・資源・人口」はいずれもその限界が見えてきている。結核の克服は20歳で死んでいた人を80歳まで生かすことに成功したが、癌の撲滅は80歳で死ぬ人を160歳まで生かすことは出来ない。資源も石油も自然エネルギーは頼りないし核融合も未だにその実現性は怪しい物がある。人口も今増えているの貧しい土地だけだし、それだって今世紀末には世界人口の減少するという説まである。
このような現状では、そこに嘗てのような無邪気に「より大きく・より早く・より大量に」を追求し、大量消費・大量廃棄を諸手を挙げて称揚することはどこか罪悪感がある。しかし、かといって中性の精神世界に生きる人達のように貴族ですら現代的な感覚で言えばホームレスのような水簿らしい格好をしていた時代にも戻れないのである。
そうした矛盾の発露こそが、今の閉塞感の根源であろう。
21世紀は新たな物理社会への種まきの時代に
さて、知価社会においては産業革命以来続いていた生産手段と労働力の分離から、合体する傾向になると指摘している。しかしながら生産手段と労働力の分離や科学という物質への感心の果てに産まれた学問によって我々は生かされている。
現に堺屋も完全に中世のような世界に戻ることはあり得ないと考えている節があるが、核融合と宇宙太陽光発電による新たな技術と資源、宇宙進出という新たなフロンティアによる「22世紀の物質社会」に向かって我々は種をまいていかないといけないのでは無いかと、物質社会の支持者としては愚考する。
堺屋も「美術は写実から抽象に移ったことが知価社会以降への先行指標」と指摘するように、こうしたSF的な考えも考えてみたら「物質への欲求」の果てに生まれてきたもの*3だということが改めて解かり、SFの衰退とファンタジー世界や内面世界を描いたフィクションが人気を博すというのは、一度出来た流れは中々止められないことの証左なのだと思い知らされる。