同性婚と同性愛に関する違和感

昨今話題になっている。同性愛問題。同性婚が認められるなら認めても良いとは思うのですが、その一方でどうにもいろいろな違和感があります。

その一つはさまざまな恋愛が出来ない人への配慮の無さ

人権活動家は「多様な価値観を」というけどそういう人間に限ってその本心は実に狭量だったりするのですが、要するに人権活動家の考える世の中は、「性的指向に限らず全ての人が恋愛をして、その延長線で結婚をする社会」であり「全ての人が恋愛が出来る」という前提だと私は感じています。

その証拠に、「LBGT」と言いますけど、性欲や恋愛感情がないという人も性的少数者として扱われていますけど、彼らや彼女らのことはわずかに触れられている程度で、異性か両性かの違いこそあれど「恋愛は出来る」と言うことが前提になっているのです。

もっとも「L・B・G・T以外を軽視している」という批判があるのでLGBTsと言おうとか言う声もありますけど、同性愛への理解がない中高年層は横文字が苦手なんだし、「LGBTとは云々」とわざわざ説明をしないまでも、文字だけで大方の意味合いがわかる「性的少数者」じゃだめなのかとも思いますが、あの人達にはあの人達の都合ってものがあるのでしょう多分。

実際半分嘲笑されつつも、非モテだの恋愛できない人だのがクローズアップされたり、一生独身という人がこれだけ話題になっていますが、そういう人達は何故結婚しない(あるいはできない)のか。
もちろんそこには様々な事情があるでしょうが、恋愛には資本とスキルが必要で、それらが不足しているから恋愛が出来ない。恋愛が出来ないから結婚できないという人も少なからず居るはずだし、それには性的指向は関係ないはずです。

話題から逸れますが、そもそも「結婚は恋愛の延長線」というのもおかしな話で、以前雑誌でガンダムシリーズ富野由悠季監督が「結婚の意味がわからない」という投稿者に「結婚は恋愛のためにするのではなく、生活のためにするのだ。もし恋愛のためなら、昔のように親や家や生活の都合で結婚した人は全て不幸になっているはずだ」という回答をしていたことを思い出しますが、同性愛者に結婚をというなら同性愛者は恋愛結婚のみという前提辞退が差別的な話であり、お見合いのインフラも整備する必要があるのではないでしょうか。

まあ、いずれにしろ恋愛できない人(それどころか人口そのものが減っていますが)がこれだけ増えている世の中で「積極的に恋愛をする人」と見做されている人が数百万人オーダーで追加されるというのはそう滅多にないことで、恋愛をダシに商売をしている人には千載一遇のチャンスでしょう。

実際、「日本のLGBT人口」は「5%」とも「7%」とも言われていますが、それらの調査はなんと広告代理店の電通がしていますし、ビジネス雑誌では「解放されるLGBT市場」とまるで独裁者が倒れて、市場の改革開放が進むミャンマーのような発展途上国みたいなノリで紹介されています。

恋愛が出来ない人から見たら、同性愛の理解が進んだところで恋愛が出来る人という多数派が今さら追加されるだけに過ぎないのです。

更に言えば、同性婚の理由として「パートナーが事故や急病で意識不明になったり、死んでも一般人として参列しなければならないから同性婚が必要」と主張されていますが、それって「年を取らない事が前提」になっているように思えます。

もちろんそうしたリスクがあることは承知ですが多数の人は、老親の介護→自らの老い→老老介護→先立たれるというプロセスを経ることになるでしょうが、そうした老いへの備えというものを余りに軽視しているように思えてならないのです。

今の日本では同性愛カップルは養子には取れないし、認められたとしても圧倒的な売り手市場なので、「政治的あるいは社会的に望ましい」夫婦ですら養子に取れない実情がありますし、パートナー間で遺産を継承できても「遺産は最後は誰に継承するのか」というのが問題が重くのしかかっているのです。

だからするなという意味ではありませんが、老いや遺産問題は骨肉の争いになりやすいのに、どこまで真剣に考えてるのかが疑問なのです。

結局、同性婚はゴールではなくスタートでにすぎないという意識が余りに希薄に思います。