100パーセントの安全と科学リテラシー

安倍総理が「安全が再び100%確保されない限り再稼働はしない」と言う発言をして「科学リテラシーがない」とか「実質的な脱原発発言」と批判されてる。

しかし、この発言は「100%」よりも「再び」という点を重視すべきである。額面通りに読めば安倍は「震災前の原発は100%安全だった」という認識だったということになる。

もちろんそういうことはあり得ないわけで、真意としては「きわめて高度な安全性を持たないと再稼働をしない」程度の意図で発言した可能性が高いのだろうが、いずれにしても不適当ではある。


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追記 件の講演の動画がありましたが、原子力発電所への言及は25分ごろにあり、その中で「100%の安全」ではなく「完全に安全を確認しない限り原発を再稼働しない」と発言しており、これは発言を翻訳した一部通信社のニュアンスの違いでありました。お詫びいたします。

 サッカーのジョホールバルの歓喜のときに、円陣を組んで散った日本代表選手を差し「『彼ら』ではありません。私たち自身です」とNHKの山本浩アナウンサーが実況していたが、政治家にも同じ事が言えるようだろう。

サッカーも、民主主義政治も、その裾野が広くかつレベルが高くないと、トップが輝かないのである。先般のWC優勝国のドイツが先進的な育成手段を取っていたことはつとに有名であるし、サッカー王国のブラジル国民が1人1人確固たるサッカー感を持っていることは言うに及ばない。

翻って私たちの生活を見て、この三年間でどれだけ人々にリスクと向き合う科学的な考え方が根付いたかといえば、疑問符がつかざるを得ない。震災前よりも科学に不見識な発言をした人を「科学リテラシーがある人」からあげつらわれる傾向が強くなっているように思えるけど、それが科学リテラシーの醸成に役立っているのかが疑問である

さらに言えば、我々は常日頃から「100%」という言葉を軽々しく使っているが、日常生活においてそれほど強い確実性があることがらというものは「人はいつか死ぬ」と言うことくらいではないか。季節ですら、地軸の傾きが起因であるので巨大隕石*1が衝突するなどの理由で地軸が変化したら季節は無くなる「可能性はゼロではない」のである。

本当はそれほど「100%」という言葉は重いのに、「ほぼ確実にある程度」のニュアンスで我々は使っているのである。
これを機会に、我が国はいまだに言霊信仰というものが根付いている社会においてリスクコミュニケーションと言葉の重要さを見直すべきではないか。

*1:なぜか再稼働派が、反対派の言動を揶揄する意味で良く隕石が衝突したらどうする?と好んで使っているが