五輪の木材供出問題でちょっと言いたいことがある

タイトルの通り。すぐに何かの寄付を求めると戦争末期だと言い出すのはどうかと思うし、自治体は強制じゃなくて任意なんだからまずは落ち着けと。まるで選手村全体を木で作るかのような言い方もされているけど、ビレッジプラザという6000平米くらいの施設の建設を巡る話である。問題はあるにしても問題のポイントはそこじゃない。木材なだけに木を見て森を見ていないかのような対応こそが問題であるとおもうし、そのほかにも問題はいくつかあるので挙げてみたい。

量の確保はどうするの?


 募集要項には木であればゴミでも廃材でも良いわけじゃ無くちゃんとJAS規格じゃないとだめだとあるし、留意事項にはご丁寧に「すべての提供木材は組織委員会の定める調達基準を満足する必要がある。」とまであるが、五輪に使う木はFSC認証*1が得られていないとダメなはずでそんな木は国内林じゃまだそんなにないはず。ましてやビレッジプラザはCLT*2で建てたがっているようだけど、日本国内でCLTなんて普及がようやく始まった段階。そこまで厳しい条件を付けて、オマケに只でどこまで木材が集まるのか?

そもそも鉄骨造の方が安くて良いもの作れるんじゃ?

今の五輪の大義名分としてコスト削減が上げられてるのに、本当にCLTなんていうまだコストの高い技術を使う必要性があるのか。そもそもCLTは日本発祥の技術じゃなく欧州で相応に普及してきた技術。

6000平米ってちょっと大きなロードサイド型店舗並みの大きさで、鉄骨造ならノウハウも相応に普及してて地方のゼネコンでも建てられる規模で、地方のゼネコンに仕事を取らせてあげたほうがよっぽど地方の五輪参加じゃないのか。

そもそも鉄骨自体がリサイクルの優等生でここ最近の日本主催のサミットのプレスセンターは二日間だけ使って徹底的にリサイクルをして解体することを前提にした施設が建てられてるが、そうした建物にも鉄骨造が採用されており、豊富な実績と環境への配慮に優れた構造も可能。

木造が持続可能性があると言っても、それはちゃんと計画的にやったらの話だし、環境がテーマだった愛知万博だってそこまで木に固執してなかったでしょ。どうしてもというならGoogleで画像検索すれば解るとおり、サミットのプレスセンターは外壁に木の簾みたいのをかけているが、どうしても寄付木を使いたいなら構造的に無関係のこの部分に使えばよいだけのはなしじゃないか。

なんでこんな提案になったのかと言えば、公益社団法人日本建築士連合会がビレッジプラザを、都道府県毎に木造のユニットを作ってそれを東京に集めて、終われば戻すと言う提案があってそれが紆余曲折を経て木の提供という事になったんだろうが、ログハウスなんてものは西洋の木造建築だし、木造が日本らしいと考えるのは日本人くらいじゃないのか。


全ての混乱を引き起こす組織委員会のガバナンスの欠如と独善性こそ問題だ

これは強調しても強調したりない事だが、今回の件は小池百合子知事が横車を入れたからだと勘違いされてるが、建築主体は東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会森喜朗会長)という組織である。組織委員会と東京都は費用負担問題で森会長と小池知事が応酬を繰り返したように別の組織であり、表裏一体の組織というわけでは必ずしも無い。

しかしながら、他県へ費用負担を要請したりビッグサイトの問題など「五輪のためなら誰もが負担を厭わないだろう」という独善性は双方は一致していることは間違いない。

そもそもビレッジセンターを木で作り、ましてや寄付木で作る意味や意義、無償で提供することの重みを誰が検討して、誰が理念を納得できるように説明できるのだろうか。


ガバナンスと広報体制の不備は国立競技場のザハ案が挫折した際に文科省が作成した「新国立競技場整備計画経緯検証委員会 検証報告書」にJSCの問題点として挙げられてるが、JSCの失敗を他山の石としてそれから何を学んだのだろうか。五輪はみんなが賛成するから「広報なんては必要無い」「だれもが協力する」というのは余りにも驕った態度である。

更に言えば、森喜朗氏が組織委員会会長なのか私には理解が出来ない。私自身は森氏はマスコミの謀略で潰された人だと思うし、有能な政治家であると高く評価しては居るが、それは泥を被ることを厭わないからで、五輪の組織委員長としては、川渕三郎氏のような自らの著書に『独裁力』というタイトルと付け、サッカーのプロ化への批判を「時期尚早という人は100年後も同じ事を言う」と押し切り、日本代表人事を「言っちゃった」の一言でイビチャ・オシム氏をジェフ千葉から引き抜く強引さと非現実的なまでの理想に燃え、さらにはスポーツビジネスの世界においても様々な実績のある人物の方が五輪というイベントにふさわしいのではないかと思えてならないのだ。

一つの方向に傾くとブレーキの効かないネット世論

今回ネット世論が盛り上がった点は、まずリフレ派の存在もある。彼らにすれば五輪は極論すれば金を出す良い山車のとしての利用価値しかなく、ソチや北京のような金に糸目を付けない従来型の開発型五輪こそが良い五輪なのである。しかし、招致レースの不人気振りをみると開発型五輪はもはや限界に達していることも事実であり、もはや五輪は迷惑施設ならぬ迷惑イベントとなりつつあるのである。

日本の寄付というものは寄付文化は育たないが故に奉加帳方式が主流なのだが、ネット社会においては「強要」「同調圧力」への強いアレルギーがあることも挙げられるだろう。しかしながら、全ての「強要」を否定する訳ではなく、多数のボランティアが運営を支えるコミケはむしろボランティアの運営に対しては好意的なようにあるが要するに、「嫌な者から押しつけつらける強要は良いが、自分が良いと思う強要はよい」更に言えば「権威は嫌だが、自分を認める権威はウェルカム」というダブルスタンダードに陥っているのではないか。

今回の件で一番恐怖すら覚えたのは、加計学園問題や共謀罪に対してマスコミを批判していたことは事実を無視してすぐに小池知事が悪いと批判したり、大東亜戦争末期になぞらえる論調が頻出したことである。

「事実を丁寧に調べれば加計学園に対して安倍政権の行動は問題無い」と言っていた人が、五輪になれば事実関係を無視して批判する。五輪とは話がずれるがさかなクンですら資源管理に関する論調でもウナギが一番危機的なんて私の知る限りでは言ったことが無い*3のに、勝川准教授のネットの放言をどこまで正しいのか検証せず、台湾で絶滅危惧種になったからもはやウナギを食べること自体が悪だ。業者は潰れても構わない。魚自体食べるべきじゃないという極論が展開されることである。

レガシーメディアと同様に一つの方向に傾くとブレーキが全く効かず、極論こそ正論であるかのような論調が展開されるのである。

もし今後戦争の開戦や民主主義を否定する世論が出てきたときにもし一つの方向に傾くとおそらくこの国は一切の軌道修正も出来ずにそうした方向に流されると私は強く強く強く確信した。

ウナギだってもしかしたら今後焼き討ちや養殖場を襲って自然に帰そうなんてエコテロリストが出てきてネットで共感されるかもしれない。

実際にそうした萌芽は既にあちこちに出ている。もし戦争が起こるのであれば五輪を開催したことが戦争になったのではなく、軌道の出来ない国民そのものではないのだろうか。

*1:森林の管理が行われたことを示す認証

*2:ひき板を並べた後、繊維方向が直交するように積層接着した木質系材料

*3:さかなクンはウナギの利活用自体は肯定しているが、クロマグロと同列に資源の枯渇を懸念しており、旬を重視し資源活用を徹底することを主眼としている