9月入学論について異議あり

 最近、9月入学論が噴出してるが、確かにいっそ9月まで延ばした方が切りが良いという発想が出てくるのは自然なことだろうが、世界の叡智を結集しても、このウイルスの特性は解ってないことの方が遙かに多く、9月に収束する保証も、来年冬にそれこそ日本がニューヨークや武漢のような惨事にならない保証も何処にも無い。仮に、冬に第二波が来たらその分長期休校をせるつもりなのだろうか?

 「感染のリスクをゼロにする」というなら、ワクチンが開発されるまで開けないだろうが、9月に入学させるというのは「ゼロリスクではないものと対峙する」ということを先送りにしているだけでは無いか。

 文科省だけでは無く全ての省庁や社会全般に関わる問題である。医師免許の国試も2月から8月にずらす必要があるだろうし、就活もその分繰り下げる必要があろう(国際化というお題目の前には経団連は容易にOKを出すだろうけど)。半年遅らせた分の学費は誰が払うのだろうか?年度の途中で教員も人事異動したり、予算措置が行われるのだろうか?

 まさに、「文部科学省だけで完結する問題ではなく、社会全体に影響を及ぼすもので、各方面との調整が極めて必要な案件だ。本当に社会全体でこのスケジュール感を共有できるのかどうかという課題がある」という萩生田大臣の答弁通りの事態であろう。

 さらに文化面にも大きく影響が及ぶ。学園を舞台にした作品や卒業をテーマにした歌はこの制度変更で全て過去のものになる。ブシロード木谷会長が賛意をしめしていたが、9月にするなら例えばBanG Dream!の設定を全て書き換える必要も出てくるだろう。そこまでの覚悟をもって木谷氏は発言されていたのだろうか?

コロナが終わって制度を変えて人心を一新したいという向きもあろうが、それは明治以前に「災害が起こって縁起が悪いから改元した」というのと同じ発想で、いわば「令和の改元」以外の何物でも無いのではないか。

なぜ野党は見たらモリカケや桜を見る会に情熱を注げるのか

 なぜ、野党(支持者)はモリカケや桜をみる会があれだけ熱を注げるのかと言えば、野党は実は平和でも社会主義でも死刑が無く同性愛者同士が結婚できるリベラルな社会でも無く、「クリーンな政治」の実現こそが最重要テーマなのではないかと考えるようになってきました。

 なんで桜やモリカケであれだけ騒げるの?って見る人が見たら不思議なのですが、彼らから見たらあれらの問題は「クリーンな政治」に反してるとみなしているわけで国家の浮沈が掛かる最重要問題とみなしてるのだ

戦後の野党の存在意義は自民党の腐敗が明らかになると野党への票が伸びたように政治腐敗へのへのアンチテーゼという時期が長く続いた。

 そうした中で世論の切実な希望もあり、また政権交代の可能性もないことから、政策論よりも腐敗の追及は野党の中でも大きなウェイトをしめるようになっていったのでは無いか。実際、地方自治体で革新首長が誕生したのは公害や政治腐敗へのアンチテーゼが最大の要因であろう。

 そうしてみると、なんちゃらオンブズマンが公共事業を叩くのも軍事を叩くのも原発を叩くのも全てが「政官財はみんな多額の賄賂をもらっている。だから○○を撲滅すれば『クリーンな政治』になるんだ」という消失点に集約されるからであろう。

 しかし、時代が過ぎ、今じゃ数千円の会費がどうのこうのなんてショボい単位の汚職でしかなくなり、彼ら好みの軍産複合体が動いてピーナツを数えるように数百万の札束が動くなんて陰謀ことは無くなってしまった。

 また、民主党が政権を取るようになって、「お前らも人のことを言えないじゃないか」と言うほどの醜態が続いた。

 なにより、ここ数年「日本貧国化論」が賑わせているが、本当にそうだとすればクリーンな政治よりも多少汚れていても大衆を富ませる政治が支持されるようになるのです。

 実際、政治が腐敗してても、世論に札束を握らせて黙らせる政権はいくらでもある。そこで明るみになる汚職は権力闘争のネタに過ぎない。

第一、安倍政権なんて「鵺」を産み出したのはそれこそ田中金権政治批判から続く「クリーンな政治」を希求する世の中が産み出した「鵺」であり、「政治改革」に明け暮れて、経済に対して無為無策のまま過ごしてきた時間と損失は余りに膨大であったが、そのことへの総括は何も聞かれない。

もっとも、クリーンな政治第一と考える人と、経世済民を重んじる人とでは、政治腐敗は「青酸」か、「なあに、かえって免疫力がつく」程度の認識しかないだろうが、いずれにせよ、安倍政権を認められないとする人は「クリーンな政治」のための歩みは失敗であると認識するしかないのである。

 少なくとも、今のような「クリーンな政治」を追求する路線で行くのであれば野党連合は、例えば議事録や政策の意志決定プロセスを全て公開し、専門の司書を雇い文書を永久に保存し、全ての支出をリアルタイムで公開する必要があろう。

 今のまま「安倍はダメ」という姿勢ではもう野党は見切られているのである。かつては敵矢があれば責めれば勝手に票が伸びたのだろうが、今の有権者は目が肥えている。老い先短い先鋭化した支持層のつなぎ止めに拘泥していては未来がない。

 じつは時間が無いのは野党自身と言うことを肝に銘じて欲しいけどまあ、無理だろうなと半ば諦めている次第である。

給料を払えない会社は潰れろとか、財界が経済の足を引っ張ってると思う人は竹中平蔵らと同じ考えである

 

 

このキクマコ先生の発言に対して、「中小企業が安くこき使える奴隷を必要としてるからだ」
「そんな企業なんて潰せ」みたいな議論になってるのですが、

中小企業が生産性を下げる悪玉論と言うのは最近ではデービッド・アトキンソン氏が中小企業基本法を名指しして天下の悪法呼ばわりして生産性の低い企業は退出しろといってるのですが、生産性の低い中小企業は退出しろという発言は別に目新しいことではありません。

2015年に発売された冨山和彦・竹中平蔵両氏の対談本『いよいよ躍動する日本経済 上昇気流に乗るのは誰だ!』(PHP研究所)という本にこういう記述があります。

books.google.co.jp

冨山「(略)・・・ゾンビ企業が数十万、ひょっとすると100万のオーダーで日本中で残ってしまっています
(略)
冨山「競争しろということですね」
竹中「そうです。競争が嫌だったり競争できないほど業績が悪かったりしている企業は退出しろということでしょう。2014年12月に政府がコーポレート・ガバナンスの原案をまとめて・・・(略)・・・独立社外取締役を選任しようという議論が出るや、経団連が反対しました。・・・(略)・・・このことを見ても解るように、ほんとうのところで経済の首を絞めているのは経済界だなあと、思いたくなります。」

ツイッターランドで人気が無さそうな二人なんですが、その実、ツイッターランドの世論と似たことを言ってるのです。


数十万~百万社と言ってるわけですが、殆ど中小企業でしょうし、競争力の無い企業は退出しろといいますが、労働力だって労働市場でやりとりする商品であるわけで、そこでのバイイング・パワーが無い企業は競争力が無い企業と言うことです。

小泉政権下でのテーマだった不良債権処理について注目が集まるのはダイエーやそごうといった大企業だったため、ゾンビ企業=大企業で、中小企業は無縁みたいな風潮がありましたが、百万社と言ってるのに反論しないのを見るとおそらく中小企業も同じでしょう。

そう考えると、政界のフィクサーwが二十年一日言い続けてきたことが全く達成されていないのはなんざんしょと思う次第です。

マラソンの完走率と不快指数の相関関係

www.mgc42195.jp

MGCの公式ページに83年以後の五輪の気温・湿度と完走率の関係が載っていたので、これとドーハ世陸の新聞報道や金哲彦氏のコラムを総合して不快指数を求めて完走率との相関関係を調べてみた。
しかし、海外では気温の記録が殆ど無い事から比較的充実しているスタート時から算定したがそれでもロス五輪など解らない大会が多いことが多かった。

まずは、一覧表。どこの大会かよくわからない都市もあるので、都市名(国名)と表記。日本開催の大会は赤く示した。具体的な日にちは面倒くさいので調べなかった解らなかったが世陸は83年の第一回当時から8月開催が多い模様。

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83年以後のマラソンの完走率とスタート時の気温・湿度

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不快指数と完走率の相関関係

で、次に示すのが相関関係で、-0.338と不快指数が上がれば若干棄権率は上がる傾向があるようには思えるが、余り大きな相関関係は無い。ぽつんと離れた二点はドーハで。ドーハだけが異様に危険率が高いという結論になったが、女子よりも男子の方がコンディションに恵まれたが、危険率は大して差が無い。2週間でその原因を気温に求めたのは余りに性急すぎるのではないか。

金氏も「東京五輪も暑い暑いとは言われているが、蓋を開けてみなければどうなるか分からない。天候というのはどこまでいっても不確実なものだからである」と看破していたが、10月に延期としても大型の台風が来ないとも限らない。天候の確実性に求めるならオープンウォーター系競技を沖縄かハワイに移して11~12月、または3~5月に開くべきとなるのでは。



電気は気に入らない人物を殴る棍棒ではありません

 小泉進次郎環境大臣が「石炭を減らしていきたい」とインタビューで答えて炎上しているそうですが、原発も石炭も嫌だでなんで発電するのかとか最新鋭の発電所は環境に良いのにとかいう意見が目立つのですが、これ進次郎の個人的な思いじゃなく環境省の省益に沿った発言なのです。

 そもそも論として環境省は、最新鋭だろうがヘチマだろうが石炭火力に否定的で、石炭火力を推進したい経産省と対立関係にあります。実際処理水を海に流したいと発言して称揚された
原田前環境大臣も「環境大臣の立場としては」石炭火力に否定的で、「厳しい姿勢で臨む」としています。

 原田氏には、所轄外とエクスキューズしたとはいえ止めるときになってこういう発言を言うのはいかがな物かと思いますし、言ったからには福岡5区選出とはいえ、一議員としてフリーハンドの立場の強みを生かして何かアクションしないと無意味だろうと思いますが、それは置いておいて。

石炭火力発電がそもそもどのくらいあってどのくらい建設されている物なのか。石炭火力に反対の市民団体のサイトからの引用で申し訳ありませんが、現在運転中の石炭火力発電所は4341.6万kWに対し、新規計画は2133万Kwなので49%増となる大幅な増大が計画されていました。

 その多くは老朽化した原発の代わりと言うよりも東電の市場を奪うために商社・石油会社と60Hz圏の電力会社によって計画された首都圏用の電源で、中には東京から遠く離れた秋田に発電所を設ける計画もあります。

 電力の小売というのは自前の発電所がないと儲からないビジネスなので、一番安い電源に向かうのは自明の理なのですが、仮にこれが全て建設されると電力市場が崩壊しかねないくらい急激に増える量です。

そうしたこともあり、環境省は新設反対に回ったのですが2016年には

  • 火力発電の効率に数値目標を設定、効率の悪い設備は休廃止
  • 再生可能エネルギー原発を合わせた非化石電源の利用を合計で原則44%以上にするよう電力会社に求める
  • 発電所のCO2排出量などの情報の開示
  • 電力業界は削減計画を誠実に実行

という厳しい条件付きで建設是認に傾きました。

しかし、パリ協定を境に再び環境省は態度を硬化させていき、さらには石炭プロジェクトへの融資が海外の株主から批判されることを恐れた邦銀や商社が融資やプロジェクトからの撤退を表明し出します。発電所というのは10年掛けて建設し、3~40年掛けて資金を回収する息の長い事業にも関わらず、数年で態度を二転三転させる国の姿勢について行けなくなったのか、上のリンクをみるとおわかりの通り、建設中止が目立ち始めます。

以上のように、進次郎は少なくとも環境大臣として環境省の方針に従った発言をしたまでです。

ですから、おかしいのは進次郎ではなく環境省であって、国です。

もう一度言います。おかしいのは国です。

ハッキリとしたリーダーシップとビジョンを示していない歪みはいつか大きなつけとなって国民に跳ね返ってくるでしょう。

さて、話は変わりますが同じく電力絡みで房総半島の停電で、自由化で設備投資を怠ったことが原因と批判する声が左右から聞こえてきますが、そもそもどの程度の風力に耐えられるのか丁度1年前に東京電力に取材した記事が残っていました。

weathernews.jp

 

「電柱の倒壊防止については、経済産業省の『電気設備に関する技術基準を定める省令』に、風速40m/sまで耐えられるようにつくることが定められています。当社はより安全を考慮して、省令で定める風速を超過しても倒壊することのないよう、設備構築を実施しています」(東京電力総務・広報グループ)

「風速40m/s以下でも、倒れた樹木の巻き添いになったり、大型車に衝突されたり、あるいは重量物が飛んできてぶつかれば電柱は折れたり倒れることがあります。しかし、当社管内において暴風などの風が直接の原因で電柱が損壊した事例はありません」(同)

仮に設備投資を怠ったから倒れたというなら、老朽化した電柱が風速40m/sを遙かに下回る風速で多数倒壊しているか、安全係数を40m/sギリギリまで落した原発事故後に立てられた電柱が倒れていないとおかしいことになります。当時の瞬間最大風速は千葉市で57.5m/sと最低の基準を超えていることになります。

安全率がどのくらいかは解りませんが、1.5倍の安全率なら風速60m/sが限度で、まさに「設計通りに耐えて設計通りに倒れた」ことになります。さらに言えばリンク先にあるとおり電柱が耐えられても電線に木やトタンが引っかかれば電柱は倒れます。

障害物が原因で倒れた電柱と、風に耐えきれなくなった電柱の割合がどのくらいの割合なのかなど今後の検証がないと解らないことが多い中で不確定要素を断定する行為は、復旧行為の妨げですらあります。

 例えば、仮に木々が倒れて停電に至ったケースが多いとすればそれは里山を放置した自治体の責任ですし、台風対策の最適解は電柱地中化であり、これは電力会社の事業ではなく自治体が行う公共事業であり、停電被害の拡大に関する自治体の責任は少ない物ではないのではないでしょうか?

もっとも被災地の南房総なんて下水の整備すら進んでない状況で地中化は一番立ち後れる地区になるのでしょうが・・・。

こうしてみてみると、皆さん本当は電気について興味は無いんじゃ無いですかと言いたくなるんですよ。自分たちの気に入らない人物や世の中の風潮を殴る棍棒として電力会社や電力システムを使ってるに過ぎないのではないかと。

同じインフラ系でも鉄道マニアというのはしばしば部品を盗んだり、写真撮影の為に木を切り倒したり、迷惑極まりない存在ですが、一つだけ利点があるとすれば興味を持って能動的にニュースを集め、体系的かつ最新の知識があることです。

他方、電力関係は原発容認派も反対派も数年前の古い知識を未だに振りかざす人のなんと多いこと。おそらく本当にまともに知識のある人は守秘義務がある立場だからSNS似書き込めないが故にさらに偏見に悪循環となっているように思います。

 

【京アニ考】原作があっても放ち続けた強い個性

 本稿を書き上げる前にあるネットニュースに目が留った。それはブシロードの創業者の木谷高明氏がある専門学校の講演で語った「作品には『作家性の作品』と『エンタメの作品』の2種類があり、ブシロードの作品は全て後者である」という発言である。*1

 この講演が行われたのは7月18日で事件の二日前のことであるが、木谷の頭の片隅には同じような女子高生のバンドをテーマにした『BanG Dream!』と『けいおん!』との比較で前者はエンタメ指向だが、『けいおん!』は作家性の強い作品という認識があったのかもしれない。

 しかし、まちがっても『けいおん!』の原作は背景の書き込みが細かいな作品でもなければ、
作家性が強いわけではなく、『まんがタイムきらら』の数ある、それも凡庸な作品の一つであり、
どちらかと言えば『BanG Dream!』のように「エンタメの作品」と言っても良い作品であった。
けいおん!』の作家性は京都アニメーションの制作陣によって付加されていったものであると言って良いのだ。

原作がありながらも京アニ作品としての強い個性を発揮した

 京アニフィルモグラフィーを見てみると実は殆どが何かしらの原作のある作品である。
しかし、この会社の異色さはなんと言っても、例え原作があっても「京アニ作品」と認識されると言うことである。例えば、これが東映アニメーションであれば「鳥山明ドラゴンボール」と認知されても「東映アニメのドラゴンボール」と認知されることはあまりないだろう。原作がありながらも強い主張をする創作者集団は私の知る限りではディズニーと宝塚歌劇団しか存在しない。

 他方、実は元請けとしての出世作となった『AIR』から『けいおん!』のあたりまでアニメファンの評価は「原作通りにアニメにするスタジオ」というものであった。前述の『けいおん!』を見ても解るとおり「原作通り」とは何を持って「原作通り」と定義するのか今一判然としないのであるが、今にして思えば他社と比べ10年先を行くと行っても良いオーバーキルな作風を前に、アニメファンも頭を整理できずに出た言葉が「原作通り」という言葉だったのかも知れない。

地方だからこそ高待遇・高クオリティが生まれた

 京アニの特徴で良く言われていた「好待遇」「地方発」「自給自足」「高クオリティ」と言った要素は、地方である以上業界でトップレベルの好待遇で迎えないと人が来ない、何かあっても頼れる人が居ないから自給自足でやらないとどうしようもならない。常に同じスタッフで製作するから高度なチームワークで仕事が可能でクオリティが上がるなど、京アニの個性として上げられる点は全て一本の線で繋がっていたように思える。

 もし、これが東京のスタジオなら例え好待遇で雇っても、仕事は引く手あまたなので引き抜きが頻発するだろうし、何かあっても他のスタジオに頼れただろうし、ここまでブランド化したスタジオにはならなかったのではないか。

 こうした現場ファーストの姿勢はKAエスマ文庫の創刊に結実する。アニメ会社のみならず、マンガ・アニメ・ゲームを扱う会社は、サンライズの『ガンダム』シリーズのような自社のIP(知的財産)を持たないと儲けられない。しかし、京アニは熱心なファンですらオリジナルが苦手な会社と目されていた。

 おそらく、その弱点は自らも知悉の上だったのだろう。そうした弱点をカバーするために「京都アニメーション大賞」というコンクールを新設し広く作品を公募。優秀な作品を文庫本として出版し、それをアニメ化させるサイクルが生み出されていった。

 動画の質はどんどんと東京のスタジオもキャッチアップされ、かつてほど作画で差がつかなくなったことは否めず、またアニメを巡る情勢も、ソーシャルゲームといった新しい娯楽の台頭やパッケージソフトの売上低迷と配信サイトの台頭などめまぐるしく変化をしていった。

 そんな中でも京アニは原作があっても出てくる強烈な個性を放ち、ゲームでいえば奇しくも同郷の任天堂のような「ひと味違う」異色の存在として存在し続けた。

現場ファーストが裏目になったかのような悲劇

 悲劇の現場となった第一スタジオは比較的新しいスタジオで、おそらく建設当時の設計思想は現場のコミュニケーションの為に開放感のあるスタジオがコンセプトだったのだろう。

 もし、中心部の防犯体制がしっかりしたオフィスビルを借りていたのであれば少なくとも京アニのスタジオへの凶行は避けられたかも知れないが社員の通勤のしやすさを考えてあえてあの地に建設したのではないか。*2

 犯人がどのように京都アニメーションの存在を知ったのか、まだ知るよしがないが、もしその作家性と小説を募集していることが私怨を募らせたとすれば、まるで京アニのこれまでの活動が全て逆回転するかのように悲劇を繋がっているかのようであまりにやりきれない。

 10億を超える多額の寄付金が寄せられサーバールームにあったサーバーにはデータが残っており、パンドラの箱の底にのこったわずかな希望を頼りに会社が立ち直ることを祈るのみである。

*1:https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20190722037/

*2:もっともそうであれば京アニゆかりの地で通り魔的な犯行を行っていた可能性は高かっただろうが

南極観測から自衛隊が撤退するかもしれない話

 産経新聞によると海上自衛隊南極観測船しらせの運用から撤退したがっているようで、というかこの原稿を書いてる時点では産経しか報じておらず飛ばしの可能性も捨てきれないのですが、理由としては「背景には海自の深刻な人手不足がある。日本周辺や南シナ海などで任務が増え続ける一方、昨年3月時点の隊員数は定員の93.2%にとどまる」(産経)とのことです。

 

重要なポイントとしては、

  1. 現在の南極観測の予算は文教費から出ている
  2. 南極観測自体は今後も継続する
    という二点に注意してこのニュースを解説しましょう。

そもそもなぜ自衛隊が南極観測

では、そもそも論としてなぜ自衛隊が南極観測を行っているのでしょうか?国立極地研究所によると以下の記述があります。

船の運航とヘリコプターの運用ができる人員を、継続して確保できる組織として、海上自衛隊となりました 
https://www.nipr.ac.jp/science-museum/qa/etc.html

ここからは私の推測なのですが、時代をさかのぼり昭和30年代の南極観測というのはまさに国民の誰が関心を抱く国家プロジェクトであり、ただの研究者の研究だけにとどまらない冒険そのものでした。

軍隊や自衛隊というのは自己管理能力が高いですし、軍人は訓練され精神的・肉体的にタフネスであると考えられています。実際に初期の宇宙飛行は米ソともに大半が現役軍人でした。

自衛隊にも協力したい事情

また、自衛隊としても南極観測に是が非でも協力したい事情というものがありました。自衛隊法には以下の記述があります。

(運動競技会に対する協力)
第百条の三 防衛大臣は、関係機関から依頼があつた場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会の運営につき、政令で定めるところにより、役務の提供その他必要な協力を行なうことができる。
(南極地域観測に対する協力)
第百条の四 自衛隊は、防衛大臣の命を受け、国が行なう南極地域における科学的調査について、政令で定める輸送その他の協力を行なう。
国賓等の輸送)
第百条の五 防衛大臣は、国の機関から依頼があつた場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、航空機による国賓内閣総理大臣その他政令で定める者(次項において「国賓等」という。)の輸送を行うことができる。
2 自衛隊は、国賓等の輸送の用に主として供するための航空機を保有することができる。

「国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会」というのは具体的には国体・オリンピック・パラリンピックラグビーワールドカップサッカーワールドカップなどが対象ですが、「100条の5 国賓等の輸送」や「100条の3 運動競技会の協力にある自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度においてという文言が「100条の4 南極地域観測の協力」にはないことに気が付かされます。つまり、自衛隊法の上では五輪の協力よりも優先度が高いと解釈することもできるのです。

これはどういうことかというと、阪神大震災まで国民が自衛隊に向ける目はどこか後ろ暗いものがあり、是が非でもイメージを向上し、隊員の士気を上げるような施策として、国民的関心事だった南極観測を利用したのでしょう。昭和30年代当時はまさにWin-Winの関係であったといえるでしょう。

南極観測の今後は

 自衛隊は「本業」である、防衛任務や災害派遣の頻度が増しております。また、このニュースを見て反安倍派の人が「日本が南極観測をやめる」とか「防衛予算で南極観測が行われている」と早合点して批判したり、自衛隊によるしらせの運用の継続を主張していましたが、先ほど挙げたように南極観測は文教予算から支出しております。

 こうした早合点は皮肉にも南極観測への関心の低下と、自衛隊の地位が向上し自衛隊が観測に協力する意味合いが薄れていることを証明しています。

 しらせが現在の「軍艦」から例えば「海洋研究開発機構の船」になれば自衛官OBや民間委託などの人材確保に柔軟性が増す可能性も高くなります。

もっと南極に関心を

 しかし、南極観測への関心が薄れ続けると、南極観測自体の継続性が危うくなってくるのも事実です。スポーツにしろ科学にしろ、結果があったり政権を批判するときだけしか興味をもたれないということが往々にしてありますが、財政民主主義という言葉がありますが、税金から支出する以上は国民が常に科学技術の進歩に関心を持たないと支出する動機が無くなってしまうのです。

マイナースポーツとされるスポーツの選手が異口同音に「五輪でメダルを取っただけしか注目されない」と嘆かれていますが、文教分野というのは華やかな結果だけが注目されやすいですが、その背後には幾千万の失敗の屍の上に成り立っているのです。成功のみを消費し、それに満足するのはするのは政策のクリームスキミングであり、進歩の後退ではないでしょうか?