コストを負担したがらない日本人とセコい政治

教育改革の話があると何かにつけて批判されるが、今の大学の問題点は「金が無い」ことに尽きるのでは無いかと。更に言えば、日本人って重要な事を理解しても、それにコストをかけたがらないよなあ。障害報告@webry/ウェブリブログさんが常々仰っているセコい政府論にも似た話なのだけど。

例えば企業に源泉徴収では徴税コストを負担させることで、政府は少ない手間で効率良く税金を集める事が出来る。また企業の社宅が政府の公的住宅制度の肩代わりをし、終身雇用が雇用保険などの代用となっている。
また司法だと、起訴便宜主義では、検察官の裁量で大幅に裁判コストを低減している。
このように、小さな政府の最低限の公的コストで、大きな政府に類似したサービスを提供しているのである。ただし類似であるので、公正さやカバー率の観点では課題を抱えている。

結局の所、内部補填で最小化されて一見コスト負担と分からない形でどんぶり勘定で負担をすることに馴れすぎていて、税金や寄付のようなコスト負担がそのまま来て、ある程度見える化された負担という真逆の概念に馴れていないんじゃないのかなと。

先日の『カンブリア宮殿』で理想の学校を作る元ユニセフ職員の女性の話をだったのだけど、彼女の話にほぼ例外なく「素晴らしい理念」だと賛意を示すけど、じゃあ実際に寄付をするかと言われたら断られるどころか寄付金詐欺扱いされたという話があった。

右も左も具体的なカリキュラムはさておき「教育は国の礎」という理念を異口同音に口にするけど、じゃあ充分な資本投下が出来ているのかと言われたら甚だ疑問なのです。

「年間一兆円オーダーで社会保障費が増えてるから、教育に予算を投下できない。年寄に若者の未来が殺される」というけど、寄附金控除制度があって、年々拡大の一途を辿っているわけで、それしないのって、「どういう学校があって、どういう研究や教育をしてるか」を調べる時間的コストを払いたくないからなのではないか。

同じ事は消費税にも言える。経済成長が必要という意見は大賛成だし、成長したら税収増も見込めるというのも分かるし、今増税はナンセンスというのも理解するのだけど、どこかしら本来負担すべきコストを負担したくないって狡い考えがどこかに透けて見える人も多いように思える。

アメリカの場合では、スポーツスタジアム建設のために増税という手段が取られることがあるのだけど、日本ならスタジアムじゃなくても地方税制の独自性云々を除いてもまず考えられない手段であろう。

そもそも、我が国においては国債という「国民の財産からの借金」という手段を多用されるが、民間が借金をしないからという以上に国民負担の矮小化と見えない化という効果があるように思える。

だけど、必要な物に必要なコストを払わないというのは精神論の温床そのものだし、本当に成熟した豊かな国になんかなり得ないのである。内部補填によるセコいコスト負担を既に我々は否定しているという現実を直視すべきでは無いか。