南極観測から自衛隊が撤退するかもしれない話

 産経新聞によると海上自衛隊南極観測船しらせの運用から撤退したがっているようで、というかこの原稿を書いてる時点では産経しか報じておらず飛ばしの可能性も捨てきれないのですが、理由としては「背景には海自の深刻な人手不足がある。日本周辺や南シナ海などで任務が増え続ける一方、昨年3月時点の隊員数は定員の93.2%にとどまる」(産経)とのことです。

 

重要なポイントとしては、

  1. 現在の南極観測の予算は文教費から出ている
  2. 南極観測自体は今後も継続する
    という二点に注意してこのニュースを解説しましょう。

そもそもなぜ自衛隊が南極観測

では、そもそも論としてなぜ自衛隊が南極観測を行っているのでしょうか?国立極地研究所によると以下の記述があります。

船の運航とヘリコプターの運用ができる人員を、継続して確保できる組織として、海上自衛隊となりました 
https://www.nipr.ac.jp/science-museum/qa/etc.html

ここからは私の推測なのですが、時代をさかのぼり昭和30年代の南極観測というのはまさに国民の誰が関心を抱く国家プロジェクトであり、ただの研究者の研究だけにとどまらない冒険そのものでした。

軍隊や自衛隊というのは自己管理能力が高いですし、軍人は訓練され精神的・肉体的にタフネスであると考えられています。実際に初期の宇宙飛行は米ソともに大半が現役軍人でした。

自衛隊にも協力したい事情

また、自衛隊としても南極観測に是が非でも協力したい事情というものがありました。自衛隊法には以下の記述があります。

(運動競技会に対する協力)
第百条の三 防衛大臣は、関係機関から依頼があつた場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会の運営につき、政令で定めるところにより、役務の提供その他必要な協力を行なうことができる。
(南極地域観測に対する協力)
第百条の四 自衛隊は、防衛大臣の命を受け、国が行なう南極地域における科学的調査について、政令で定める輸送その他の協力を行なう。
国賓等の輸送)
第百条の五 防衛大臣は、国の機関から依頼があつた場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、航空機による国賓内閣総理大臣その他政令で定める者(次項において「国賓等」という。)の輸送を行うことができる。
2 自衛隊は、国賓等の輸送の用に主として供するための航空機を保有することができる。

「国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会」というのは具体的には国体・オリンピック・パラリンピックラグビーワールドカップサッカーワールドカップなどが対象ですが、「100条の5 国賓等の輸送」や「100条の3 運動競技会の協力にある自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度においてという文言が「100条の4 南極地域観測の協力」にはないことに気が付かされます。つまり、自衛隊法の上では五輪の協力よりも優先度が高いと解釈することもできるのです。

これはどういうことかというと、阪神大震災まで国民が自衛隊に向ける目はどこか後ろ暗いものがあり、是が非でもイメージを向上し、隊員の士気を上げるような施策として、国民的関心事だった南極観測を利用したのでしょう。昭和30年代当時はまさにWin-Winの関係であったといえるでしょう。

南極観測の今後は

 自衛隊は「本業」である、防衛任務や災害派遣の頻度が増しております。また、このニュースを見て反安倍派の人が「日本が南極観測をやめる」とか「防衛予算で南極観測が行われている」と早合点して批判したり、自衛隊によるしらせの運用の継続を主張していましたが、先ほど挙げたように南極観測は文教予算から支出しております。

 こうした早合点は皮肉にも南極観測への関心の低下と、自衛隊の地位が向上し自衛隊が観測に協力する意味合いが薄れていることを証明しています。

 しらせが現在の「軍艦」から例えば「海洋研究開発機構の船」になれば自衛官OBや民間委託などの人材確保に柔軟性が増す可能性も高くなります。

もっと南極に関心を

 しかし、南極観測への関心が薄れ続けると、南極観測自体の継続性が危うくなってくるのも事実です。スポーツにしろ科学にしろ、結果があったり政権を批判するときだけしか興味をもたれないということが往々にしてありますが、財政民主主義という言葉がありますが、税金から支出する以上は国民が常に科学技術の進歩に関心を持たないと支出する動機が無くなってしまうのです。

マイナースポーツとされるスポーツの選手が異口同音に「五輪でメダルを取っただけしか注目されない」と嘆かれていますが、文教分野というのは華やかな結果だけが注目されやすいですが、その背後には幾千万の失敗の屍の上に成り立っているのです。成功のみを消費し、それに満足するのはするのは政策のクリームスキミングであり、進歩の後退ではないでしょうか?

これは酷い「みんなで叶えるディストピア」ですね

 

 紙幣の左右反転疑惑、燃やしているのは韓国から渋沢栄一の肖像を採用することが大して燃えなかったせいなんじゃないかと思うし、ネットで話題と言うけど、その割にマスコミ報道で初めて聞いたのですが、日経に大蔵省OBの人のインタビューを交えて、こういう経緯を紹介している。

 

 

 植村峻氏(引用者注:大蔵省印刷局で紙幣の製造業務に携わり紙幣研究をしている方)は「紙幣肖像の目的は、モデルの持つ内面まで表現して生命力のある肖像を作成しようというもので、決して写真の正確な模倣ではない」と言いきる。実際、1951年に発行した500円札では明治の元勲・岩倉具視の肖像を左右反転して用いた。原型は1989年(明治22年)に外国人彫刻師のキヨソーネが完成させた大型の彫刻作品だ。オリジナルでは顔は右方向を向いており、大礼服を着用して胸に勲章を付けていた。お札では姿勢を左向きに代え、蝶ネクタイの洋服姿にして印刷した。(強調は引用者)

bizgate.nikkei.co.jp

 このほかにも偽造防止対策として肖像画が世界的にも大きくなる傾向で、現紙幣より1.3倍も拡大しているなど面白い話があるので一読してほしいが、もしこれが津田塾大学が文句を言ってるならディスコミュニケーションの問題ではあるけど、いずれにしてもあくまでも「写真を参考にした絵」であれば左右が逆でも問題が無いはずだけど、あまりにPhotoshopが普及しすぎて「写実的なものは全て写真の加工品」という認識がされているのではないかというのが話の根本じゃないかと。

 

 そもそも、英数字をデカデカと載せるのは紙幣として品格がないとか真ん中じゃないのはおかしいとか、ホログラムを変な帯扱いしたりとどうもケチをつけたい人が多い。この現状はまるで、東京オリンピックのサノケンエンブレムか、国立競技場のザハ案を思い出す。

 

 しかし、思うのはその道何十年のプロの感覚よりも素人のおかしいという因縁の方が力を持つ時代なのだと言うことである。「写真を参考にした絵」であれば問題ないと言ったけど、それすら目トレスなんていって因縁を付けられるご時世である。素人の合議の当たり障りのないデザインやプロダクトがよいデザイン・よいプロダクトという時代なのかも知れない。

 

 実際公共建築だって90年代まではデザインに凝ろうとしたけど、いろいろあって今じゃイオンのショッピングセンターのほうが凝ってるってくらい味気ない建築ばかりになってきている。

 

しかし、素人の感覚の方が力を持つというのは自分の仕事が素人に叩き潰される番がいつか来ると言うことである。

 

紙幣だって、「国民の皆さんの意見を参考にして」パブコメを募集して、佐藤可士和あたりが座長の諮問機関を立ち上げて数案出してご意見を伺いしますとした方が確実に揉めなかっただろうが、そうして出来た物の何処に偽造対策やユニバーサルデザインなどが盛り込めるのか疑問である。

 

当たり障りのないというのは、先鋭さも進歩も何もないと言うことではないだろうか?

どう考えても新サクラ大戦が売れる未来が想像できない

昨日発表されたサクラ大戦の新作「新サクラ大戦」なのですが、テーマ曲とかはゲキテイの換骨奪胎という感じで良い感じなのですが、どうしてもこれが馬鹿売れする未来が見えないのですよ。

声優陣は豪華だけど歌謡ショウ出来るの?

 サクラ大戦は歌謡ショウという声優がそのままミュージカルをやる舞台がメディアミックスの一つの目玉で、今のラブライブ!やバンドリやスタァライトのような2.5次元の先駈けともいえるコンテンツです。

声優陣がミュージカルをやるのは子供からアニメとの声の違いを指摘されたというエピソードがスタァライトと似通っているという点では興味深いのですが、*1それはさておき、今回のキャストは豪華なのですが、歌謡ショウの練習に取れる時間って有るのでしょうか?

 それにお客さんも、2.5次元コンテンツに対する目は格段に肥えているはずだし、無名でもガッツリサクラ大戦に時間を取れる若手を中心に起用した方が良かったんじゃ無いですか?

藤島先生の代わりに久保帯人先生ねえ・・・

 藤島康介先生が降板して、久保帯人先生がキャラクターデザインを務めることになりましたが、交替自体はいろいろ藤島先生の評判も下がっていてやむを得ないとは思うのですが、久保帯人先生って言うのがちょっとピンときません。  20年前の藤島先生はテイルズオブシリーズでもキャラデザを務めていたり、マニア層では強い動員力のある人だったのですが、そういうポジションであるようには思えないんですよ。やるならキズナアイのキャラデザの森倉円先生の方が良かったのではないでしょうか?

主人公を魅力有る人物に出来るの?

 サクラ大戦の魅力はヒロイン以上に主人公です。ヒロインが変わることよりも主人公が変わることにクレームがついたというギャルゲーなんて後にも先にもサクラ大戦くらいでしょうが、大神一朗のような主人公像を提示できるのでしょうか?

今さら据え置き?

 これが一番の懸念です。ガチャへの批判はあれど、世の中で一番普及しているゲームハードって結局スマートフォンなわけで、今さらPS4据え置きなんて言われてもお客さんが受け入れるのでしょうか?

 セガの人達、サンジゲンのムービーが一杯有りますみたいなこと言ってますけど、そんな著名なスタジオの手によるムービーが一杯有りますなんてものが売り文句なんて10年も15年も前の時代錯誤がアピールをされても正直困惑します。

 それに、据え置きと言っても、ソフトを買ってお仕舞いじゃなく、なんだかんだでDLC前提でプレイする前提の仕様なんじゃ無いでしょうか?それだったらまだスマホの方がマシな気がするのですが・・・。

なんか平成が終わった後に、平成を回顧するようなソフトが出る感じなのですが、これが売れたら謝りますが、ちょっと売れる未来が想像できないのです。

一応リブートと言ってるので新規層なのでしょうが、サクラ大戦がヒットしていたときとは時代も、オタクシーンの主流も変わっており、昔のノリそのままなら新規層の取込は難しいと思うのですが・・・。

*1:スタァライトは子供じゃ無くブシロード木谷会長が違和感を感じたことが切っ掛け

最近気になる兆候を見せるきららの危機?

 もともと、きららのような雑誌は単行本の売上で黒字を出すビジネスモデルなだけに単行本の売上げの高低で打ち切りが決まり、またそれがシビアな傾向があったのだが、最近気になる傾向がある。

相次ぐ中堅作品の連載終了

 きららフォワードの『なでしこドレミソラ』を始め、『どうして私が美術科に!?』などきらら編集部から期待されていたと思しき中堅作品が昨年から相次いで終了している。それに加えフォワードはゆるキャン△芳文社が立ち上げる電子書籍サイトCOMIC FUZに移籍するなど「本当にフォワード自体が大丈夫なのか?」と心配したくなるような事態である。

作り手はアニメにならない作品は要らない!?

 打ち切りの傾向を見ていると、「アニメになれない作品は要らない」 という方針になっているような感がある。個人的な憶測や妄想の域なのだが、単行本の売上げプラスアニメの企画書をもって営業回りを行ってその結果が芳しくないと終了させるような方針になってるような感がある。まあ、10~15年前ならアニメにならない程度の企画でもアニメになる(せざる)を得ないアニメ業界の事情もあるのかもしれないが。

 もともと「内容はほのぼのだけど、競争はシビア」な雑誌ではあるが、アニメにならないようでドラマCD程度のメディアミックスが精一杯の中堅どころの作品(と行ったら失礼だけど)の居場所が無くなって、純然たるメディアミックスの為の雑誌になってるように思える。

 萌え4コマファンには周知の事実であるがそのそも2017年には末っ子的な存在の『まんがタイムきららミラク』が廃刊になっており、芳文社もきらら系雑誌の整理縮小傾向が進んでいるが、もともと、4コマ雑誌の高齢化が深刻になり「アニメファンに4コマを届けたい」というコンセプトで始まった雑誌であるが、考えれば最近の話題の中心はソーシャルゲームに移っているのも事実で、仮にオタク層が増えているという状況でも無い限り、可処分所得と可処分時間の奪い合いであるのは明らかである。

受け手はソシャゲがあれば何も要らない!?

 問題はそのソーシャルゲームがどんどん進化していって、今ではフルボイスでLive2Dで動き、プレイヤーとキャラクターのみならず、キャラクター同士の関係性を描くのがもはや当たり前になっているということである。女性キャラクター同士の関係性を描くというきららの魅力に「上位互換」の存在として現れてきているのである。しかも、ゲームは集団作業であるので投入する速度が速く、キャラクターも豊富で無限に話題を作れると言うことなのだ。

 この影響はラブライブ!や艦これにも現れていて、近年明らかにライブコンテンツに展開が偏っている感があるが、2013年とアニメファン向けソーシャルゲームの初期に出された作品が明らかに時代に合わない物になったのに、出せる武器がライブコンテンツしか無いという実情もあるのだろう。ラブライブ!に関しては運営はこの状況を百も承知のようで、スクスタという新作を出す…のだが数年単位で遅れているのが実態である。 

さらなる刺客ときららの対抗措置

 さらに一昨年末頃からあらたな資格が出てきた。それがVtuberである。彼女たちの出現当初から、「終わらない日常系」と評する向きもあったのであるが、例えばにじさんじの「オタクの学級委員」などのようなキャラクター造形ははきららに出ていてもおかしくないキャラクター造形であるし、そもそもソーシャルゲームもそうなのであるがガッツリと嵌まってしまうと割と時間を消費してしまうコンテンツであり、可処分所得と可処分時間の奪い合いという点では内容がではなく情報量がというプアーなコンテンツである4コマはどうしても不利になってしまう。

 話をきららに戻すが、もちろんこのような状態を芳文社をくわえてみている状況では無く、『きららファンタジア』というソーシャルゲームをリリースしているが、問題は常にソーシャルゲームには話題性が必要とされてると言うことである。

 一番手っ取り早い話題作りと言えば、ある作品をアニメ化してその作品を参戦させるのが手っ取り早いと言うことになる。

まとめ

以上のように現在のきららは

  1. 新たなメディアの普及
  2. きらら離れ
  3. 対抗としてのソーシャルゲーム参入
  4. 話題性のある作品を欲する動き
  5. アニメ化偏重の編集方針
  6. アニメ化できない中堅の打ち切り

という流れが起こっているというのが私の仮説だが、しかしキャラ萌えという同じ土俵で対抗すると言うのであれば「投入される速度が速く・常に声があり・フルカラーで動く」ソーシャルゲームVtuberに太刀打ちができるわけが無い。萌え4コマにしか出来ないことを提示していかないと厳しい言い方をすれば淘汰されてしまうと思うのであるが…。

純愛コンビに見るゾンビランドサガの本質

 ゾンビランドサガという作品は紺野純子が圧倒的に一番人気という感があって、水野愛と純子が恋人のような関係になる二次創作が多いのであるが、基本的には一期の段階では互いに理念に理解はして居ても共感は出来ていない、違った手法で頂点を極めたライバル同士という意識が強いはずなのである。*1

 愛には「記憶を戻したさくらが居る」と言いたいけど、ともすれば事務所からバーターでねじ込まれたドラマの、余りに棒読みで本人ですら黒歴史に葬り去りたい演技すら、目を輝かせて「愛ちゃん凄い」とか言ってしまいそうで、理解者じゃ無く崇拝者に近い立場になる気がする。

 純子に対し「接触系イベントにでないことが『私の個性』だと言ってやれ」と言った巽だって、なんせ最初は純子が「アイドルグループに参加すること」への不安に対して「グループ活動の経験が無いなんてボッチ」と嘲笑したり、「愛と純子が引っ張れば活動には問題ない」程度に考えていて、6話の直前に決定的な対立の可能性に気がついた程度*2で、あの発言が口からでまかせの方便とは言い過ぎにしても純子の考えの理解者というにはほど遠い。


貴種流離譚物の主人公のような水野愛

 愛も純子も絶頂期に突然の事故死に追いやられたという境遇は全く同じだが、実際にアイドルへ取り組みも微妙に温度差があるように思える、愛は生きていたとしてもまだギリギリとはいえ女性がアイドルが出来る年齢であり、彼女の性格も相まって「10年経ってゾンビとして蘇り、『フランシュシュの3号』という偽名を名乗り再びスターダムに上り詰めようという野心すらもっている。」その野心はまるでシャアやルルーシュのような貴種流離譚物の主人公である。

 対して純子は35年前で、愛・さくら・リリィ・巽の母親と同年齢でもおかしくないどころか、同僚アイドルに孫が出来てもおかしくないくらいの時代が経ち内気な性格もあいまってさくらに死因を語るにも「参りましたよ」と思い出話を語るノリで語っている。

 まあ、純子がさくらと同世代でも純子が野心ギラギラ滾らせてまたスターダムに昇ろうとは思わないような気がするけど、いずれにしても紺野純子が水野愛の野心の共感者になるとはちょっと思えない。そもそもフランシュシュがトップになるためなら愛は自らは下がれることはたやすいだろうが、純子はそんなことは出来るような子ではないだろう。

ゾンビでなくてもあり得た対立、ゾンビだからこその結論

 昭和と平成というレッテルを剥がして二人の考えを簡潔に書くと、「リアリストの水野愛」「ロマンティストの紺野純子」「努力を見せる愛」「努力を隠す純子」。この対立というのは、本作ならではと言うよりも仮に世代が同じもの同士でもありえるし、実際幾度となくアイドル系コンテンツにおいて対立は描かれた。

 これまでのコンテンツの本作の違いは、それぞれの時代で違うやり方で頂点を極めたもの同士の対立とすることで、妥協点を見いださないまま走らせるための理由付けとして機能していることである。純子は握手会には参加せず、「昭和のアイドル」として振る舞っている。

 しかし、例えば『Bang Dream!』にPastel*Paletteというアイドルバンドが居るが、努力家で理想主義者の丸山彩が大雨でびしょ濡れになれながらもチケットを売る光景に、バンドからの対立を考えていた子役出身で徹底的なリアリストの白鷺千聖が心を打たれて翻意にするというストーリーであったように普通ではどちらかが折れて矛が収める話が圧倒的に多いのである。

 アイドルとしての目的自体は二人とも同じにしても目指す方向性をどちらも曲げずにこのように同じグループに属す。これを認めるのは生前に純子が圧倒的な実績があってからこそ認められることなのである。これがサキやさくらだったら視聴者ですら「何言ってるんだ?」となるのでは無いか。

ゾンビランドサガにおけるリアリティの担保

 さて、純子の圧倒的な実績と書いたが、アイドルとしての実力は純子が上というイメージが強く、というか、「実力はそれほどでも無い」と「あんたは死んだから伝説になれたんだ」と言わんばかりの追悼記事を見る限り公式においても実力は純子>愛*3とされているように思えるが、こと純子と愛の関係においては「握手会商法で売れてるだけ」という視聴者の平成アイドルへの偏見と過小評価と昭和アイドルへの思い出補正が本作におけるリアリティあるいは時代考証の担保であるように思える

 実際スタッフインタビューのさくらのキャラデザにおけるモデルは橋本環奈とか、愛のモデルは前田敦子とか言った時点で露骨なまでに嫌悪感を示した人がゾンビランドファンには少なくない。これは史料が揃っていて、学者からアマチュアまで数多の研究者が居るミリタリーものや歴史物じゃ絶対に通用しないやり口であるが、ゾンサガという作品において世代の違いは話の枝葉であるからこそオミットできたのであろう。

ゾンビランドサガの話の本質

本作の話の本質はズバリ「巽幸太郎こと乾青年が10年前に死んだ片思いの少女を蘇らせて、彼女の生前の願いを叶える話」であり、本作は巽の巽による巽のための作品と言って良い。その本質はおそろしいほどシンプルでミニマムである。巽幸太郎を中心とした変形ハーレムアニメと言っても良いかもしれない。

スタッフインタビューで「巽が嫌われたらこの作品は終わりだ」という事を語っていたが、スタッフ・キャストともに巽の描写には細心の注意を払ったに違いない。

実際に巽のしていることなんて「洋館に女の子を軟禁させてアイドル以外の選択肢を奪ってアイドルさせる男」「高校時代の思いを10年も引き摺る」なんていう犯罪の臭いしかしないヤバい男で、嫌われて当然の男を上手く好感の持てる存在にしたスタッフの力量の勝利であろう。

しかし、一期のうちは巽の巽による巽のための作品、巽のためのフランシュシュで良いが、話を続けていれば、ゾンビは最終的にどうなるのかという問題が横たわってくる。まあ、成仏させるか存在を認めさせるしかないのであるが、どうするのかスタッフの力量が今後も問われ続ける作品である。

*1:近年の風潮を見ると、二期になると二次創作の設定が逆輸入されて妙に二人の距離感が近くなったりするかも知れないが、一期を見る限りでは10話のハイタッチくらいしか、仲の良い描写はなかったりする。

*2:漫画版9話より

*3:作中ではお互いの時代の頂点同士とされているのですなわち、本作では昭和のアイドルは平成のアイドルよりも実力が上ということになる

高輪ゲートウェイ駅撤回を主張する能町みね子の駅名への定見の無さが酷い

  コラムニストの能町みね子が高輪ゲートウェイ駅撤回を主張する署名がそれなりに好評なようだが、高輪ゲートウェイ駅はJR東日本が主催する再開発事業「グローバルゲートウェイ品川」予定地に位置しており、駅は港区港南*1で、高輪地区と芝浦地区の境界線。簡単に引き下がると思えないのであるが、それにしても駅名撤回を主張する能町みね子はその資格があるのかを問いたい。

放言のオンパレード

 地名マニアという能町は東京メトロ系のサイトで「能町みね子の駅名ソムリエール」なる連載があった。

「地名や駅の名前にはその地域の歴史に合ったようなものを残してほしい。」

という趣旨の元で独断と偏見で「江戸後期から明治始めくらいに使われていた、地域を代表する特徴的な地名か、もしくは、坂や寺など、その土地のランドマークとなる名称を新たな駅名」に付けようという趣旨の連載なのであるが、地名に興味はあれど命名に至った由来には興味が無いようで、銀座線開業当時からある「上野広小路駅」を「下谷広小路」に改名しろなど、明治時代からの瑞祥地名である浦安駅「昔からの漁師町なので、よし」と言ったり、*2その駅名になった経緯を無視した暴論がしばしば見られる。


一々突っ込むのも面倒くさいのであるがとりわけ酷いと思ったのはこの記述

青山一丁目〜表参道も、微妙だと思う。「青山でイベントがある」などと言ったとき、その会場は9割方、外苑前か表参道が最寄駅です。青山一丁目駅に用があることはそんなにない。にもかかわらず、「青山」という名前がつく駅は青山一丁目のみ。実際、私の知人で「青山でのイベント」に行く時に間違って青山一丁目で降りた人は何人かいる。これはゆゆしき問題ですよ!

 古い地名を大事にしろと良い、一方で東京駅は「都内をうろつく地下鉄で『東京駅』があるのも変な話」という、旅客案内という駅名に重要なファクターを無視した理由*3丸ノ内線東京駅は「丸ノ内で良い」とか言うくせに、青山一丁目駅北青山駅・外苑前駅は旅客案内上の理由から青山駅表参道駅は南青山駅に改名しろという。

 それにしても、北青山・青山・南青山なんて、太郎次郎三郎みたいな投げやり名称は余りに酷い。原稿書いてるうちに最後まで書くのが面倒くさくなったのだろうか?

 そもそも銀座線開業時は外苑前駅は青山四丁目駅、表参道は青山六丁目駅であり、百歩譲って青山に統一するなら開業時の駅名というならまだ解るが、そもそもこの人銀座線開業時の古地図読んでるのだろうか?

昭和初期の学園の名がダメで、1980年代に付けられた通りの名が良いとする矛盾

dogatch.jp
 この連載と同じ趣旨の企画をテレビでもやっていたようなのだが、そこでは極めつけとも言うべきとびきり酷い改名案が出てきた。

「自由が丘」を探ってみると、丘でさえなく、湿地帯だったことが判明。さらに、当時は田舎すぎて、ランドマークになる坂や寺すら見つからないという。苦戦する能町に対し、ヒャダインが「逆に今に寄るとか」とアドバイス。現在、駅近くの通りが「マリクレール通り」と呼ばれていることが分かると、それをそのまま駅名にすればいいという3人の意見が一致。「自由が丘」は「マリクレール通り」として生まれ変わった。

 マリクレールなる名称はマリ・クレールというフランスのファッション雑誌の日本語版が1982年に創刊されるにあたってできたタイアップ地名である。ランドマークになる坂や寺すら見つからないというが、駅設置当時の駅所在地が「荏原郡碑衾村大字衾」という地名なので改名するなら衾駅が妥当であろう。実際大井町線が出来たときの改名案がそうだったのだから。

 さすがに、地元の方から批判するTweetもあり、翌週に「マリクレール通りから衾沼駅にします」という訂正放送があったようだが、丸ノ内線開業当時からすれば付けようが無い「蚕糸の森公園」駅なんて駅名をランドマークだからと採用しつつ、

 自由が丘学園は「昭和初期の比較的新しいランドマークだから不採用」と自己矛盾を起こしてる。

燃えないところを選んで火を付ける

 そもそも論として「旧来の地名に復古しろ」というなら東京や大阪を東の京とか、坂は土に返る(=死ぬ)と読めるから縁起が悪いとかしょーもない理由で改名された江戸や大坂に戻せと主張すべきだろう。

 更に言えば、新幹線の駅なんて新●●なんて伝統もヘチマもない駅名の宝庫である。新函館北斗北斗市なんて10年前に出てきた合併地名であり、北斗なんて名前自体、特急北斗か寝台特急北斗星くらいしか当地に縁が無い。強いて言えば北海道のどこでも付けられるような瑞祥地名である。

 わざわざ田中角栄*4が出てきて、駅名は燕市、地名(=駅長室所在地)は三条市という形で落着した新潟県燕三条駅をどう改名すれば良いのか能町にご意見を伺いたいものである。新幹線の駅に手を付けたら流石に炎上するというのはわかってるのか、「顔はやめな、ボディにしな」的な理屈が垣間見える。

www.change.org

 今回の改名署名運動でも今まで散々放言を書き散らしたのに「(投票)上位3案のどれかがいいと私は思いますが、どれを選ぶべきかまでは明言しません。」と逃げる辺り能町の狡さが垣間見える。*5

 インタビューやchenge.orgの趣旨説明でもあれこれ理論武装してるけど、要するに「山手線なんて目立つところにこんな駅名は気に入らない」以外の何物でも無い。コラムニストになれればこんな居酒屋談義でも金を稼げるなんて羨ましい限りである(僻み)

 

*1:品川駅も住所は港南にあたる

*2:浦安駅のある猫実地区は鎌倉時代から有る伝統ある地名だが、津波の被害を受けて堤防を気づいて津波が来なければ良い(根越さね)と名付けられた地名である。

*3:それなら、地下鉄名古屋駅名駅駅、地下鉄仙台駅はあおば通駅にでも改名しないとならなくなる

*4:言うまでも無い新潟を代表する大政治家であるが、三条市の選挙区は田中が地盤とする旧新潟3区で、一方の燕市は旧新潟1区であった。

*5:そもそも「長すぎて事務処理的に問題が生じすい」というが、漢字書きでも高輪ゲートウェイより長い駅名はわんさかあるが一体誰の事務処理なのだろうか?

五輪の木材供出問題でちょっと言いたいことがある

タイトルの通り。すぐに何かの寄付を求めると戦争末期だと言い出すのはどうかと思うし、自治体は強制じゃなくて任意なんだからまずは落ち着けと。まるで選手村全体を木で作るかのような言い方もされているけど、ビレッジプラザという6000平米くらいの施設の建設を巡る話である。問題はあるにしても問題のポイントはそこじゃない。木材なだけに木を見て森を見ていないかのような対応こそが問題であるとおもうし、そのほかにも問題はいくつかあるので挙げてみたい。

量の確保はどうするの?


 募集要項には木であればゴミでも廃材でも良いわけじゃ無くちゃんとJAS規格じゃないとだめだとあるし、留意事項にはご丁寧に「すべての提供木材は組織委員会の定める調達基準を満足する必要がある。」とまであるが、五輪に使う木はFSC認証*1が得られていないとダメなはずでそんな木は国内林じゃまだそんなにないはず。ましてやビレッジプラザはCLT*2で建てたがっているようだけど、日本国内でCLTなんて普及がようやく始まった段階。そこまで厳しい条件を付けて、オマケに只でどこまで木材が集まるのか?

そもそも鉄骨造の方が安くて良いもの作れるんじゃ?

今の五輪の大義名分としてコスト削減が上げられてるのに、本当にCLTなんていうまだコストの高い技術を使う必要性があるのか。そもそもCLTは日本発祥の技術じゃなく欧州で相応に普及してきた技術。

6000平米ってちょっと大きなロードサイド型店舗並みの大きさで、鉄骨造ならノウハウも相応に普及してて地方のゼネコンでも建てられる規模で、地方のゼネコンに仕事を取らせてあげたほうがよっぽど地方の五輪参加じゃないのか。

そもそも鉄骨自体がリサイクルの優等生でここ最近の日本主催のサミットのプレスセンターは二日間だけ使って徹底的にリサイクルをして解体することを前提にした施設が建てられてるが、そうした建物にも鉄骨造が採用されており、豊富な実績と環境への配慮に優れた構造も可能。

木造が持続可能性があると言っても、それはちゃんと計画的にやったらの話だし、環境がテーマだった愛知万博だってそこまで木に固執してなかったでしょ。どうしてもというならGoogleで画像検索すれば解るとおり、サミットのプレスセンターは外壁に木の簾みたいのをかけているが、どうしても寄付木を使いたいなら構造的に無関係のこの部分に使えばよいだけのはなしじゃないか。

なんでこんな提案になったのかと言えば、公益社団法人日本建築士連合会がビレッジプラザを、都道府県毎に木造のユニットを作ってそれを東京に集めて、終われば戻すと言う提案があってそれが紆余曲折を経て木の提供という事になったんだろうが、ログハウスなんてものは西洋の木造建築だし、木造が日本らしいと考えるのは日本人くらいじゃないのか。


全ての混乱を引き起こす組織委員会のガバナンスの欠如と独善性こそ問題だ

これは強調しても強調したりない事だが、今回の件は小池百合子知事が横車を入れたからだと勘違いされてるが、建築主体は東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会森喜朗会長)という組織である。組織委員会と東京都は費用負担問題で森会長と小池知事が応酬を繰り返したように別の組織であり、表裏一体の組織というわけでは必ずしも無い。

しかしながら、他県へ費用負担を要請したりビッグサイトの問題など「五輪のためなら誰もが負担を厭わないだろう」という独善性は双方は一致していることは間違いない。

そもそもビレッジセンターを木で作り、ましてや寄付木で作る意味や意義、無償で提供することの重みを誰が検討して、誰が理念を納得できるように説明できるのだろうか。


ガバナンスと広報体制の不備は国立競技場のザハ案が挫折した際に文科省が作成した「新国立競技場整備計画経緯検証委員会 検証報告書」にJSCの問題点として挙げられてるが、JSCの失敗を他山の石としてそれから何を学んだのだろうか。五輪はみんなが賛成するから「広報なんては必要無い」「だれもが協力する」というのは余りにも驕った態度である。

更に言えば、森喜朗氏が組織委員会会長なのか私には理解が出来ない。私自身は森氏はマスコミの謀略で潰された人だと思うし、有能な政治家であると高く評価しては居るが、それは泥を被ることを厭わないからで、五輪の組織委員長としては、川渕三郎氏のような自らの著書に『独裁力』というタイトルと付け、サッカーのプロ化への批判を「時期尚早という人は100年後も同じ事を言う」と押し切り、日本代表人事を「言っちゃった」の一言でイビチャ・オシム氏をジェフ千葉から引き抜く強引さと非現実的なまでの理想に燃え、さらにはスポーツビジネスの世界においても様々な実績のある人物の方が五輪というイベントにふさわしいのではないかと思えてならないのだ。

一つの方向に傾くとブレーキの効かないネット世論

今回ネット世論が盛り上がった点は、まずリフレ派の存在もある。彼らにすれば五輪は極論すれば金を出す良い山車のとしての利用価値しかなく、ソチや北京のような金に糸目を付けない従来型の開発型五輪こそが良い五輪なのである。しかし、招致レースの不人気振りをみると開発型五輪はもはや限界に達していることも事実であり、もはや五輪は迷惑施設ならぬ迷惑イベントとなりつつあるのである。

日本の寄付というものは寄付文化は育たないが故に奉加帳方式が主流なのだが、ネット社会においては「強要」「同調圧力」への強いアレルギーがあることも挙げられるだろう。しかしながら、全ての「強要」を否定する訳ではなく、多数のボランティアが運営を支えるコミケはむしろボランティアの運営に対しては好意的なようにあるが要するに、「嫌な者から押しつけつらける強要は良いが、自分が良いと思う強要はよい」更に言えば「権威は嫌だが、自分を認める権威はウェルカム」というダブルスタンダードに陥っているのではないか。

今回の件で一番恐怖すら覚えたのは、加計学園問題や共謀罪に対してマスコミを批判していたことは事実を無視してすぐに小池知事が悪いと批判したり、大東亜戦争末期になぞらえる論調が頻出したことである。

「事実を丁寧に調べれば加計学園に対して安倍政権の行動は問題無い」と言っていた人が、五輪になれば事実関係を無視して批判する。五輪とは話がずれるがさかなクンですら資源管理に関する論調でもウナギが一番危機的なんて私の知る限りでは言ったことが無い*3のに、勝川准教授のネットの放言をどこまで正しいのか検証せず、台湾で絶滅危惧種になったからもはやウナギを食べること自体が悪だ。業者は潰れても構わない。魚自体食べるべきじゃないという極論が展開されることである。

レガシーメディアと同様に一つの方向に傾くとブレーキが全く効かず、極論こそ正論であるかのような論調が展開されるのである。

もし今後戦争の開戦や民主主義を否定する世論が出てきたときにもし一つの方向に傾くとおそらくこの国は一切の軌道修正も出来ずにそうした方向に流されると私は強く強く強く確信した。

ウナギだってもしかしたら今後焼き討ちや養殖場を襲って自然に帰そうなんてエコテロリストが出てきてネットで共感されるかもしれない。

実際にそうした萌芽は既にあちこちに出ている。もし戦争が起こるのであれば五輪を開催したことが戦争になったのではなく、軌道の出来ない国民そのものではないのだろうか。

*1:森林の管理が行われたことを示す認証

*2:ひき板を並べた後、繊維方向が直交するように積層接着した木質系材料

*3:さかなクンはウナギの利活用自体は肯定しているが、クロマグロと同列に資源の枯渇を懸念しており、旬を重視し資源活用を徹底することを主眼としている