今の日本で何が一番豊富にあるのか?「知価社会」

 

 堺屋太一の代表作とも言える著書で、1985年の書とは思えないくらい先見性のある筆致である。

堺屋はこの本で「豊富な物をたくさん使うことが格好いいと感じる美意識」と「不足するモノを節約することは正しいと感じる論理感」が人間には備わっていると指摘している。
 堺屋が予言したとおり、今、最も豊富なものと言えば情報すなわち知恵であり、堺屋の予想を大きく上回るほど発達し、豊富にある物となったのはコンピュータの膨大な計算資源である。

 考えてみれば、10年前のパソコンに匹敵するようなコンピュータを、我々はスマートデバイスという形でいくつも身につけ、家庭でもそうした物をいくつも持っているというライフスタイルを送っている。例えばディープラーニングは、インターネット上で容易に手に入るデータをコンピューターに食わせて、膨大な計算資源を使ってパターンを見つけさせるし、例えばビットコインはその発掘の為だけに膨大な計算をコンピューターにさせているおり、ビッグデータの世界ではテラバイト・ペタバイトなんていう、10年前ではとても想像もつかないような単位がビジネスで当たり前のように活用されている。

 そうした業種が最先端と見做されるのは、まさに「豊富な物をたくさん使うことが格好いい」という本能的に抱く価値観の発露に他ならない。

 さて、これまでの20年間は人余りの時代と言われていた。つまり人をたくさん使うことが格好良い時代だったのだ。しかもグローバル化やインターネットの普及で製造業や場合によっては情報処理の分野においても中国や東南アジアの人もわざわざ日本に連れて行かなくても使える(場合もある)時代が来た。

まさに空前の人余り時代である。この20年間で良く伸びたとされる産業はいずれも飲食やファストファッションといった労働集約型産業である。

 芸能や娯楽の世界でもとりわけ女性アイドルなんてものは、松田聖子中森明菜といったソロアイドルの時代から、おニャン子クラブという例外こそあったが、徐々にアイドルはグループで売る時代になり、5人組のSPEEDというグループが出てきた。そして、モーニング娘。が10人を突破した頃には常識外れに多いと人々は受け止めた物であるが、AKB48とかいう数百人グループが一世を風靡する時代となり、現在は坂道シリーズ*1の時代である。

 とはいえ、戦前のように金持ちがこぞって、書生やお手伝いさんを何十人も雇うなんてことは無くなった。理由は簡単でそうするには人件費が掛かりすぎるのである。

ストック活用論は本当か?

 近年の政策を見ていると「内部留保を活用」してだの「空き家を活用して」という話を良く聞く。ストックが豊富という意識の元で、「ストックをたくさん使うことが格好いい」という美意識が随分と根付いたように思える。

 そうした美意識では、「ストックはたくさん持ち続けて活用してすること」が格好いいものであり、例えば維新が大阪がやってるように府と市の施設を統合したり、自治体の財産を売却するなどのストックを削る行為は「ケチくさい」行いの最たる物で、府と市の施設を共存させることが格好いいことなのだろう。

 ところが、見方を変えて当事者になれば、ストックの内の一つである金なんてあればある程よいと考えるし、労して手に入る物だとか、使えばなくなる資源であると考えれば「節約することは正しい」と考え始めるのは人間の心理だ。財務省の役人にしても現状の医療制度の維持でアップアップなんだから感染症に金を使えなんて、消費税を15%に上げても足りないと思っているだろう。

 あるいは、予測不能なことは幾らでも起こるし、企業買収なんて外国企業は1兆円なんて金を平気で投じるのだから、金は使わないで取っておくべきと考えるだろう。

 更に言えば、そもそも得てしてそうしたストックは帳簿の上の話だったり、高度成長期の時代に大量供給されたものがストックとして活用するに足るかって話は無視されがちで、ストック活用論というのは物質的に見えて、その実実態性の無いバーチャルな話であり、ストック活用論というのは情報の産物であろう。

物質への限界と、物質を否定できない矛盾の中で

 堺屋は古代は物質が豊富にあった時代でありその世の中は現代と似ているが、次第にフロンティアが無くなり、当時の資源であった木材を切り尽くした中世の時代は、物質不足で、時間が豊富にあった時代であると指摘する。そうした世の中では物質的な充足ではなく精神的な充足が求められるというのである。そのような時代では「物事を正確に観察しなくなり、自らの心の中に浮かぶ想像や社会的に信じられている架空の話を重視するようになった」((Kindle版No.2052))のだという。

 物質重視・科学万能の世の中に生きる我々には到底信じられず、また耐えられもしない話であるが、考えてみたら現在の我が国の労働者人口は5660万人(2019年)と言われており、国民の過半数は労働に従事していないことになる。

 そのような、人々にとって一番「何が豊富か」と言えばまず時間であり、数字と現実の観察よりも精神的な世界、すなわち「自らの心の中に浮かぶ想像や社会的に信じられている架空の話」に感心が向き、政治も数字よりも庶民感覚が持て囃され、原子力発電所の停止や市場移転延期のコストよりも一時の感情が意志決定を左右するようになってもおかしくないのである。

 実際堺屋自身も2007年のインタビューで、「1960年代には『堺屋君の議論は感情的』と言われたのに、20年後には『君の言っていることは数字だ』」と批判されたと指摘している。*2


 しかしながら、普段、感情論を剝き出しにする人でも労働問題では「最低時給1500円」とか比較的具体的な数字を出して来たり、あるいは「今の若者は車も買えない」と嘆く人も多いが、それらは「物質への欲求」そのものであるが、「物質への欲求」が科学を生み、それに生かされてる以上は我々は物質を完全に否定することが出来ない。

 外国では「地球は平面」だの「進化論は嘘」だのと言う人が結構居るが、日本人ではいくらワクチンを否定して、自分の正しい物を正しいと信じる人でも地球は平面と言う人は殆ど居ない。世代を超えて受け継がれるほどに高度工業社会での日本の成功体験は強烈であり、「物質社会」と「精神社会」との折り合いに苦悶しているのが、今の実態であろう。

 堺屋の指摘する「文明の『犯人』」である「技術・資源・人口」はいずれもその限界が見えてきている。結核の克服は20歳で死んでいた人を80歳まで生かすことに成功したが、癌の撲滅は80歳で死ぬ人を160歳まで生かすことは出来ない。資源も石油も自然エネルギーは頼りないし核融合も未だにその実現性は怪しい物がある。人口も今増えているの貧しい土地だけだし、それだって今世紀末には世界人口の減少するという説まである。

 このような現状では、そこに嘗てのような無邪気に「より大きく・より早く・より大量に」を追求し、大量消費・大量廃棄を諸手を挙げて称揚することはどこか罪悪感がある。しかし、かといって中性の精神世界に生きる人達のように貴族ですら現代的な感覚で言えばホームレスのような水簿らしい格好をしていた時代にも戻れないのである。


 そうした矛盾の発露こそが、今の閉塞感の根源であろう。

21世紀は新たな物理社会への種まきの時代に

 さて、知価社会においては産業革命以来続いていた生産手段と労働力の分離から、合体する傾向になると指摘している。しかしながら生産手段と労働力の分離や科学という物質への感心の果てに産まれた学問によって我々は生かされている。

 現に堺屋も完全に中世のような世界に戻ることはあり得ないと考えている節があるが、核融合と宇宙太陽光発電による新たな技術と資源、宇宙進出という新たなフロンティアによる「22世紀の物質社会」に向かって我々は種をまいていかないといけないのでは無いかと、物質社会の支持者としては愚考する。

 堺屋も「美術は写実から抽象に移ったことが知価社会以降への先行指標」と指摘するように、こうしたSF的な考えも考えてみたら「物質への欲求」の果てに生まれてきたもの*3だということが改めて解かり、SFの衰退とファンタジー世界や内面世界を描いたフィクションが人気を博すというのは、一度出来た流れは中々止められないことの証左なのだと思い知らされる。

*1:良く勘違いされるけど46人じゃ無い

*2:このインタビューは「ファミリー企業の重要さ」に力点が置かれているが、知価社会の記述を要約して21世紀にアップデートされているので一見の価値あり

*3:機動戦士ガンダム(1979年)も「増えすぎた人口」を食わせるために宇宙をフロンティアにした作品

20年経った今だからこそ価値を増す名書「日本の競争戦略」

 

日本の競争戦略

日本の競争戦略

 

 読んだ。ビジネス書(と言って良いのかな?)の類いというのは一見すれば数年で賞味期限が切れてしまうような本も多いが、本当に価値のある本は時代を受け継がれても変わらない普遍性があるが、この本の内容も携帯電話の輸出産業化に期待するなど時代がかった記述もあるが、その多くは初出から20年経ってもまるで今年書かれた本であるように耳に痛い指摘が多い。

 しかし、それは日本の競争戦略において非常にまずいことであろう。「日本企業は揃って同じようなビジネスモデルなのに、国際的な競争力がある産業は(ドイツと比較しても)ごく少数で、かつ八〇年代をピークに競争力は下がり続け新しい産業は産み出されていない」と、指摘し、日本政府がやりがちな保護育成策は間違いだ。国がやることは、競争の推進、技術革新を促す規制*1と、義務教育と、専門教育の充実。長期投資の奨励こそが寛容である解いているが、これは非常に耳が痛い指摘である。

 結局の所、日本企業が輸出産業で強みを持つのは、極端な話を言えば未だに「車と家電とその部品」の一言で片付けられ、かつ、なぜGDPの6割を内需が占める国がここまで外需の影響に対し脆弱なのかをつまびらかに明らかにしている。本著でも大学改革の必要性が訴えられるが、あれから20年経ち、大学こそ国に保護育成策の元で育てられた「失敗産業」(本著での「保護育成策に庇護された」競争力の無い産業の表現)であることが如実に解ってきている。

 国立大学の独法化や予算削減などあれほど大学に対して酷い仕打ちを受けてきたのに、まだ学術界は国に期待をかけ続けてきているが、もちろん国が予算を出すのがベストなのは論を持たないが、そろそろ学術界も自力更生に励む時期なのかも知れない。もっとも防衛予算どころか企業からの研究持ち込みすら、どこか嫌悪感を抱く風潮があるように見えるが。

 本書の刊行から20年経ち、「競争」と「戦略」の重要性を説いているがむしろ世論からはますます「競争は悪」という風潮が起こっているように思えてならない。

 高度成長期の「成功体験」*2と、中国が政府主導で計画経済の元で成長を果たしたように見えるので、余計に政府がもっとしっかりして経済戦略を立てろという声が主流になってきた。また、リストラへの恐怖なのか、「選択と集中は悪である」と主張する声も強い。

 例えば、100億円しか無い状況において、ともに100億円の投資が必要なAとBがあり、どちらを選ぶかというのが本来の意味での「選択と集中」であるのだが、どっちもつかずに50億円ずつ投資するという中途半端なことがしばしば行われがちであり、他方SNSでは出せる資金が100億円しか無い状況なのに「どっちも100億円ずつ出すべき」とか人の話を聞いていないとしか思えない批判を良く聞くが、全ての分野に無尽蔵に金を出すというのはそれはそもそも戦略では無い。いや、本当に無尽蔵に金が出せるならそれも戦略なのだが、実際にはそんなことは無い。

 日本企業が行ってきた「選択と集中」というのは、得てしてドメインを無秩序に拡大しつづけ、一度経営状態が悪化しても中々手放さず、手の付けられない状況になって初めて事業から撤退を始め、結局企業の全体の体力を摩耗する結果に終わってきた。これは戦略としての「選択と集中」ではない。戦略というのは限られたリソース。すなわち手持ちの資源をいかに有効に使うのか。言い換えれば何を棄てるのかを決めることである。

 さらに言えば、リソースは資源である以上は使えば消える物であり、それは人材も例外では無いはずだが、この20年でその当たり前のことが忘れ去られ、リストラ時代に生まれた豊富な労働力を人海戦術で力業で解決するようなことが横行してきたように思える。その「豊富な労働力」も中国だとか東南アジアに比べれば遙かに高コストであり、それが更に日本企業の競争力の低下に拍車を掛けてきた。

 人々がなぜ全張り戦略が善とされるのか。日本人の特性なのかは知らないが、ジャーナリストや政治家といった知識人から市井の人まで「大企業や国や自治体は金やリソースは無尽蔵に沸いてくるが、それを出し惜しみしている」という勘違いがあるように思えるし、そもそも「総合○○企業」こそが価値があるという価値観が広く根付いているように思える。

 しかし、資本市場においては問答無用で「小さくても高い利益率を上げる企業が偉い」のである。また企業である以上は一義的には収益を上げることが第一で健全な収益が無くして、社会への貢献も雇用も果たせないのであるが、そもそも収益を上げるということが卑しいとすら思われているように思える。

 そして、「総合○○企業」こそが価値があると言う価値観はインターネット企業においても通底する概念である。YouTubeは動画配信サイトに徹するのに対し、ニコニコ動画はやれ立体だやれ静画だやれイベントだと、本来なら動画配信に経営資源を集中すべきなのに「何でも手を広げて」結局大きく水をあけられたし、PixivのUIが使いづらいというけど小説から始まって、あれもこれもと「クリエイティブなこと」であればとにかく手当たり次第にやるというスタンスが見て取れる。「何をやらないか」という定見が無いサービスが限りなく膨張しているのである。

 さて、冒頭に書かれた携帯電話の輸出産業がなぜ果たされなかったのかと言えば、携帯電話メーカーは携帯キャリアの庇護下に置かれ、ひいては国による保護産業であるが故に高付加価値化をしてもそれを売り込めなかったのではあろう。日本の携帯産業で一番競争力のあるのは電電ファミリーでは無い京セラとソニー(それですらコモディティ化に翻弄されて1%もない)というのがその証拠であろう。

 また、本書に書かれていないが、80年代前半には240円/ドル近くあった為替レートも大きな競争力になったであろう。

 本来この本は廃れるべき本であろうが、価値が高まるのは大変遺憾に思うがますます価値を増し続けており、日本経済に興味のある人であれば本であろう。

*1:保護育成策ではない

*2:実際にはもちろん誤りであることは本書でいいだけ書かれてる

余りに危機意識が無い菅義偉首相は我々の鏡映しだ

www.asahi.com

もう開いた口がふさがらないとはこのことで、これは本来であれば房総半島台風の時の対応が批判された森田健作知事とか、台風のときに島外の会議に出て懇親会でどんちゃん騒ぎしていた(伊豆)大島町長並みの、すぐに辞任か、レームダックになるような大問題だし、GoTo止めた止めないよりも大問題のはずなのに、その割にマスコミの反応は鈍い。大物文化人や芸能人が参加しているから忖度してるのでしょうか?

というか、緊急事態宣言下で風俗店に通ってた立憲民主党の議員が離党していましたよね。宣言が一寸出る前にうろちょろ2丁目を出歩いて警察ともめ事を演じた某議員はお咎め無しですが。

 今回の件は、GoToよりも遙かに自民党支持層のコア層の離反を招きかねない大問題であり、明らかな失態なのに全力で擁護する*1西村大臣もですが、
野党の余りにピントがずれている

ステーキが問題じゃ無く高齢者ばかり5人以上で会食をしたことが問題なのです。それはステーキじゃなくホームパーティーでもマクドナルドでも問題にすべきなのです。

このご時世に「より多くの人に会おうともしない」というのもピントがズレてると思います。何せ党首からして「PCR検査で陰性なら安心」とか言ったり、フェイスシールドはアベノマスクよりも効果的と考える御仁なので、換気してるからセーフとか言って普段から多くの人に会ったり、大人数で会食しているのでしょうか?

茨城県では飲み会に医師が参加してそれがクラスターになっていますし、大阪府医師会の提言では「(逃げ出した業者に代わり)看護師が直接掃除してるからが外注出来る環境を整備しろ」とかこの一年で何やってたの?という感じなのですが、
もう、文字通り上から下まで、予防に対する姿勢や冬への備え*2がたるんでいて、それが感染拡大を招いたのはもう間違いなのに、感染拡大のスケーブゴートに旅行業が使われたのは余りに不憫すぎます。

 この国は本質から目をそらし続け、生け贄を常に差し出さないと回らない中世のような国なのでしょうか?そういう政治しか出来ないのであればこの30年の衰退は当然の帰結であるし、その前の40年の繁栄もまったく自分の実力なんぞ関係なく冷戦と円安によってのみもたらされた僥倖であると結論づけるしかないのです。

 思えば、尾見先生が5月ごろに「味集中システム」的な飲食業を提案して誰もが冷笑していたときからこの種はまかれていたのでしょうか?

 9月の菅首相就任時から、巨人が野球賭博問題でガタガタになったときに、その責任をなあなあにして監督を辞めた原辰徳監督を引き継いだ後の、負債を押しつけられた高橋由伸監督へのデジャヴがあったのですが、本人もほぼ居抜きで選挙をしないという時点であまり長期でやる気は無かったのでしょう。

 もう、今の本音を言ってしまえば来年の五輪の開会式や総選挙は安倍さんで挑んで欲しいという気持ちです。

 顔が見えないとファンからも批判された(って今の内閣と一緒だ)由伸監督だって岡本和真選手を育てたんだし、ましてや一内閣一仕事と言うんだし、早期でお辞めになるとしても、何か一つでも「これは遺産だ」と言えるものを。それがデジタル庁でも良いのですが出来れば安倍さんが逃げていた処理水の処理やPHVワクチンの接種再開に道筋つけてからにして欲しいものなのですが…。

それにひきかえトム・クルーズは偉いものです。碌に距離を取らないスタッフに「この映画からクラスターが出たら、撮影は中止されて何千人もの仕事が奪われる。お前はクビだ」(要約)とものすごい剣幕で怒りつけたようです。そして、最後に「君たちを信じてここにいてもらっているんだから」とフォローも忘れない。全く上司として100点満点の対応です。王さんやみのもんたとともに忘年会する人よりもよほどリーダーの器があるものです。

*1:もし管さんが選挙期間中に直接有権者を札束を渡してても擁護するつもりなのでしょうか?

*2:忘新年会が普通に出来る前提で予定を組んでいた店も多かった

高橋洋一氏のNHK改革論と価値観を更新できない世論


高橋洋一氏のEテレ閉局案の話だけど、これに対してEテレを守れみたいなことを吹きあがる人がいるけど、どんどん子育て世代には配信が浸透してきて、そうして育った子供たちには決まった時間に放送されるテレビをみるという習慣が育たなくなっていってきているのである。

そのある種の象徴とすべき事態が昨年のドラえもんの夕方枠への引っ越しであろう。

animeanime.jp

藤津亮太氏は、ある一定年代以上の世代が持つ「TVアニメの檜舞台は19時台」という思い込みがあると指摘し、テレビ局の編成部にある「どのような時間にどのような番組を流すかを決める、視聴率をあげることでCM枠の価値を増し、会社の利益を最大化する」という価値観からは“戦力外通知”を受けたのだと指摘し、その価値観を「中央」とするなら「外周」にある深夜アニメや配信を開拓してきたと指摘する。

放送法は、インターネットはおろかビデオすらない昭和26年に制定された法律でもはやこうした今の動きには対応しきれていないのであるが、大多数の人たちは、インフラとコンテンツは一体であるという昭和26年の価値観しか持ち得ていないようである。

もちろん、放送局はこうした動きを察知し、生き残るためには何より配信と同じ土俵に立つしかないが、NHKが何かしようとしたら民放から民業圧迫の批判を受けるし、何より何をするにも国会マターになる特殊法人という組織形態が新しい動きの邪魔をしているのである。

民放にしてみたら一法人につき地上波は原則一つしかないのに、NHKは2つも与えられ、そのほかにBSやラジオなどを合わせたら9つの電波があるという時点で対等な条件ではないと考えてるので電波の整理を訴えるだろうし、逆にNHKからしたら「SNSで国民の強いNHKへの支持があった」として受信料義務化への口実としたいだろう。

一見すればいい加減な思い付きにしては希望の見えないパンドラの箱を開けるような話だが、それこそが彼の真意な気がする。
NHKの議論をしてて、このままでは持続可能性がないにもかかわらず根本的なグランドデザインの話を国はしてこなかったのである。

なんども言うが、もはや昭和の価値観や制度のままでは、放送の在り方は放送文化は持続不可能であろう。放送の強みは最大の同報性であるが、それすら価値観の多様化で怪しいことになってきているが、SNSを見てると8~90年代のようにジャンプが600万部、宇多田ヒカルのCDが700万枚売れるような時代から更新されていないような気がするが、どうにかして今の価値観に共感はしなくても理解してもらわないと本当に放送文化は終わると思うのだが…。

「世界観をリセットするのが伝統」とムーブする古参ファンに嫌気が差した話

 前回の続きから。今回の件で古参ファンが異口同音に発した「アイマスは設定や世界観リセットするのが伝統のコンテンツ。そうであることに早く慣れろ。」と言った趣旨の発言に凄く嫌気がさしました。

 正直、その発言自体今までゼノグラシアだのJupiterだの出してきてミリオンでは後輩も出来てるのにCSは延々と新人アイドルからやらされることに、何一つ違和感を持たない人間の生存者バイアスを感じますが、それはさておき、

 そもそも「凛世の件に反発する人は新規ファンだね。若いねえwwww」と決めつけているけど、エビデンスあるんですか?反発した一人の人権派義士氏もアケマスからの古参ファンだし、仮に新規ファンだとしても、今日日CSマスよりも洗練されたコンテンツはなんていくらでもあるわけで、そうしたコンテンツを味わった人間が「昔からの伝統」とやらを押しつけらるのは暗に「嫌なら出ていけ」と言ってる物で反発しか招かないでしょう。

 だいたい、キャラの積み重ねとか整合性というなら(余り大きな声で言えないけど生身の人間が素のまま演じている)、VTuberは圧倒的かつ究極的に優れているわけだし、シャニマス自体が今までの積み重ねを大事にすることが売りのコンテンツで、そうしたものが受け居られているってことは時代が変わったという可能性を疑えないのでしょうか?

 得てしてそう言うことを言う人に限っていわゆる「みんマス」思想だったりするのですが、シャニマスをプレイしてあのゲームの「異質さ」に気が付かないのでしょうか?まあ、気が付かなかったり、実は「みんマス」と言いつつシャニで遊んでないのだから、こんな発言をできるのでしょうし、「アイマスが多すぎてアイマスをする時間が無い」なんて言われてるけど、今や300人のアイドルが居て、5系統のコンテンツが動いていて、その一つ一つを把握するなんて土台無理な話ですからね。ガミPですら把握してるんですかね?

 「設定をリセットすること」のメリットなんて彼らの口からは聞いたことがなく、「そうするのが当たり前」と思考停止して受け入れている様はまるでイエスマンみたいに感じましたし、あんな敷居を自分から勝手にあげるようなイエスマンばかりのコンテンツに先はあるのかと本気で心配になりました。

 中には「ファンたちに定期的に冷や水ぶっかけるのが良い」みたいなことまで言ってるAS担当の人のもいましたど、それならASの声優を交替するか引退させても同じ事を言うのでしょうかね?

 まあ、スタマスなんてどうせ買いませんし、スタッフにおかれましてはもし次があるならもっと良いゲームを作って下さいとしか言えません。

結局シャニマスPはスタマスの何に怒っているの?

 昨日(10/6)のスタマスに凛世がでるようになって大炎上して、それに対して古参が一斉にシャニPというか凛世Pに向かって「ファンとと公式との付き合い方」みたいなのを説教しているけど、どうも何が炎上しているのか理解して無いんじゃ無いかなと思います。

 「並行世界だから不満なんだろう」という人も居たけど、シャニマスだってプロデュース毎にWINGに優勝したり、一次予選に敗退したりするその様はパラレルワールドそのものだし、よくよく考えればシナリオ一つ一つの時系列だって本当に整合性取れてる(今は取れていても今後も維持できる)のか怪しい面もある。なんなら、コミカライズなんてWINGの予選形式が変わっていたり、イルミネが一番後輩で他のユニット(ノクチルとストレイライトは現在未出演)はある程度売れていたり、並行世界というものになじみが無いわけでは無いのです。

 じゃあ、何が不満なのかと言えば、シャニマスは「公式が強くシナリオに強い作家性を見いだす」傾向があって、スパロボ式クロスオーバーはそこがなくなって雑な扱いになりそうなことへの不満と反発なのだと思います。

 誤解を恐れずに言えば、他のタイトルは公式が弱くてシナリオもいい加減かつ適当なもので、3DCGの技術とファンの情熱で突っ走ってきた歴史なのだと思います。

 これはアイマスに限った特殊な状況じゃなく大塚英志が1989年に『物語消費論』で提唱した「ビックリマンチョコで消費されていたのはチョコレートでも、シールでもなくフレーバーテキストに語られた『物語』であり、消費者はその背景を想像することを消費している」のだという「物語消費論」に近いものがあるでしょう。

 たとえば、坂上さんも「黎明期のアイマスはユーザーの二次創作主導で作られた物だった」ということをおしゃって居ましたが、ニコマス文化が伸びたのは公式が弱いからこそ二次創作が盛り上がっていた面もあったと思うし、モバマスで100人以上の「変なアイドル」(当時のキャッチコピー『変なアイドルがいっぱい登場』より)を用意できたのも公式が弱く、カードに据えた一言二言の会話で必要充分だったという面も大きいのでしょう。

 だけど、シャニマスは公式が強固で、むしろ「物語消費論」で語られた「消費者はその背景を想像すること」よりも以前の消費形態である「消費者は与えられたものを享受する」というスタイルに近いと考えています。

 もちろん、シャニマスも二次創作自体は盛んなのですけど、「物語を自ら作ることAS」と「物語を与えられ(てそこからリアクションす)るシャニマス」って同じ『アイドルマスター』というタイトルであっても性質は水と油と言っても良いわけで、その実は『アイマス』と『ラブライブ!』くらい違うのではないでしょうか。

 ただし、283Pにも落ち度もあるし、古参にも正論が有るとは思います。
 
「凛世は283P以外にプロデューサー様なんていうはずがない」という主張があるけど「役職+様」なんて「ディレクター様」なんて言ってきているし、そこまで公式が外してるとは思えませんし、案外売りのはずのシナリオも読まれていなかったり忘れられてたりするのかなとは思います。しかしだな、親愛度MAXになれば「あなた様」と平気で言ってきそうな気はしなくもないですが。*1

 他方、古参も「公式なんて都合の良いところだけ取ればいい。盲信するな」ということを言ってきてますけど、それ自体は正論だとは思います。どの公式だって100%都合良くは行かないのですから、他の複数の*2タイトルを見つけて広く浅く消費するのが一番精神衛生を保つのにいい付き合い方なのと思います。

 しかし、今回の発表の数日前のニジガクのアニメが注意深く「これはスクスタと違うパラレルワールドですよ」と丁寧に描いていたのに、この雑さはなんとかならなかったんですかね?いっそ登場人物が全員765の新人アイドルだったらここまで荒れなかったかも知れないですがね。まあ、そうなれば別の所から火の手は上がりそうですけど。

*1:これって言うなれば、美希が283Pをハニー呼ばわりするようなもの

*2:他マスという意味じゃなく、出来れば提供する事業者からして違う

アイドルを人質にとってることを良いことに殿様商売をするアイマス運営

※これはお気持ち表明です

アイドルマスターに本腰を入れてプロデューサーになってまだまだ新参者と言って良い立場なのですが、どうもアイマス運営のとにかく保守的で受け身な姿勢にイライラさせられること然りです。正直アイドルマスターというコンテンツをもっと広く知ってもらおうという姿勢が運営には見られないように思えます。

このままなら5年後このコンテンツは潰れている気がします。

コラボは先方から声をかけるが基本

坂上Pのインタビューを見てみてみたらコラボは「先方から声を掛ける」という話なのですけど、基本的に売り込みはやらないんでしょうかね?『バンドリ』が午後の紅茶のリアル宣伝を貰ったり、Aqours「手も気持ちもぴっかぴか!」なんて厚労省とのポスターの仕事を貰っているのを比べたらコラボの規模が凄く見劣りする気がします。

 シャニマスなんてようやく二年目の春に養老乃瀧が初めてのコラボなんですから、コンテンツ立ち上げ時でも軌道に乗ったときでも関係なく、自分から営業なんてしないんでしょう。新プラットフォームのローンチータイトルという一番重要な時期のはずなのにそんな態度だから1年目はあんな悲惨な売上だったんですよ。

 アイマスというコンテンツがニコマスで広がっていたという成功体験から、「別に宣伝しなくてもタダで勝手にファンが広げてくれる」という意識が強いのかも知れません。春先のVTuberシャニマス配信ブームもVTuberにお金払って宣伝して貰ってるんだなとみんな思ったのでしょうけど、その後のトラブルを見たら自発的に広がったものみたいですし。

 DJKOOとかビリーバンバンとか大御所とのコラボは凄いと思いますが、これは非常に申し訳ないですが、エコーチャンバーにはなり得ても、あれで新規が来るとは思えないんです。まあ、ミリシタの宣伝ソングと称してチュパカブラを選択肢を出してそれを選ぶ程度のファンと運営しかいないのですが。ひょっとして、Twitterのトレンドに一度乗れば「宣伝になった」と思ってるんでしょうか?

 塩見周子・幽谷霧子・豊川風花・桜庭薫と主要なプロダクションに一人ずつ元医者や趣味が献血と書いている人が居たり、4人とも血液型がバラバラ*1なんだから、これほどコラボにうってつけの題材もないと思うのですが、日赤から声が掛からない限りやらないんですかね?

 投票企画があったりしたら、(アイマスファンという意味の)プロデューサーは宣材資料を作成したり、当然ながら作中のプロデューサーも営業回りに行ってる描写があったりと、みんなアイドルの売り込みに懸命になってるのに、(アイドルマスターというゲームそのものの)プロデューサーは、売り込みをせずにでーんと構えてるだけというのはどうなんですかね?

 ま、バンドリの午後茶やバンドリの厚労省コラボも向こうから声を掛けて貰った末の企画なのかも知れませんが。

アニメも受け身?

Mマスがアニメになったときには「アニメ化には出会いやタイミングも必要で、 男性は 女性より歩幅が広いからミリオンより先にアニメになった」ということを坂上Pが言ってましたけど、それなら、ミリシタが出たときがコンテンツを売るという意味では一番の売り時だったと思います。

 デレだってデレステは5年経ち、モバマスも10年も続けて勤続疲労が目立つ昨今。もういちどコンテンツの起爆剤としてのアニメという点では新キャラ声優7人が揃った今が一番の旬ですよね?彼の言うベストなタイミングって一体何時なんですかね?パチンコ化の話があったときなのでしょうか?

 アニメも自分から主導して企画を立ち上げないで、基本的に「先方から声を掛けて貰う」のを待つ姿勢なのでしょうか?そんな姿勢を取っているのであれば、アニマスやモバアニでは製作委員会におけるクレジットの筆頭ではあるのですが、実際に出す資金なんてお付き合い程度で実際のアニメはノータッチなのではないでしょうか。おそらくミリオンのアニメもパチンコの販売元と噂されるSANKYOが殆どお金出してくれるのでしょう。

 そりゃ、サンライズのオリジナルアニメな『ラブライブ!』だったり「キャラクターとリアルライブがリンクする」が売り文句で最初からあらゆるコンテンツに投入すること前提の『バンドリ』とは違ってあくまでもゲームファーストなのはわかります。

 そもそも自分で企画を立ち上げて、当時はアイドルアニメなんてモノがなかった時代で方々に断られた挙げ句に出来たのがゼノグラですし、出来ればやりたくないものなのでしょうか?

持て余している感がありありのASと新技術と、どのアイマスも好きなこと前提の越境施策

 アイマスMRとかあふぅTVは大変素晴らしいものがあります。ただ、VTuberとは格段に負担が掛かるものですし、そもそも演じる劇場自体がないということもあるので仕方ない面はありますが、軌道に乗るまで赤字覚悟で種をまかないとどうにもならないと思うのですが、今のところ散発的な試みに留まっている感じがあります。

 こうした場に投じられるのは経験が豊富で、高齢化やママさん声優も多いという現実的な事情もあって大抵ASなのですけど、ミリオンが一大コンテンツに育ち、声優のプライベートの制約も多い現在では13人しかいない765プロだけでの展開も限界が見えてて、かといってミリオンに完全合流するわけにも行かずという持て余し感が見え見えです。

13人という(アイマスのタイトルの中では)少人数と知名度を生かして他のソシャゲとコラボとかしたら良さそうなんですけど、自発的に売り込みしないなから無理ですね。

 更に言えば、最近ハンズとかアニメイトとか全作品コラボをやってますけど、他マスにファンを還流させること自体は正しい施策だと思いますが、ミリが好きな人がデレが好きとは限らないし、デレなんてNGと楓さんくらいしかしらない状況もあり得るのに、グッズだけズラズラに並べても余り意味ないんじゃないかと。

 他マスにファンを還流させるなら、まず他マスのことを知ってもらうところから始めるべきで、折角Youtubeチャンネルがあるのだから、バンドリTVのように全てのアイマスをテーマにして司会の声優さんを週替わりにした情報番組とか越境SDアニメとかやらないのかなと思うのですが、まあ、無理ですね。(二回目)

サブスク?死んでも嫌だね!(大和田常務風に)

 ここまでつらつらと不満を書いてきましたけど、ナナシスみたいに「アニメはやらない。やるときプロジェクトが終わるとき」なんて考えている所もあるので「やらないことがポリシー」というならまだ甘受できなくないのですが現状で意味一番の不満点はこれですね。

 何もドラマCDも配信しろとかオフボーカルも配信しろなんて言ってませんし、発売と同時に出せとも言ってません。『アイカツ!』も『ラブライブ!』も『電音部』もサブスク配信をしているのに一向に出してきません。一年遅れでも構わないのに一向に出してきません。

 アニメになるよりもローリスクで宣伝になるし、面倒なCDの出し入れなんてしなくても済むし、「興味はあるけど買うほどでも無い曲」とか「今では入手が困難な曲」もフルで聞けるというのはファンにとってはメリットしかないし、一再生ごとに数銭のお金が入るのだから、YouTubeに無断でアップされた曲を聴かれるくらいなら配信した方が運営側にもメリットはあるはずですが、CDの売上減少を恐れてるのでしょうか?

どうせ配信したところでプロデューサーなんてイベント目当てで初版限定盤を何十枚も買うんでしょうし影響なんてなさそうですが。

まとめ

 間違いなくアイドルコンテンツを開拓した先駆者だったのですが、今となってはフットワークの重さがとにかく目立ちます。

 10年前の成功体験や失敗に未だに囚われて新しい施策を打ち出せていない気がしますが、今の制作陣が引退して高山さんが偉くなるころには変わってるのでしょうか?それまで持つかは別として。

 他に代わりがあるなら「辞めてやる」と言いたくなりますが、本編や楽曲、二次創作*2は質量ともに素晴らしいものし、なによりアイドル(キャラクター)には代わりがないのであるので離れられず、まるでアイドルを人質に取られてるようです。

 そりゃ、コンテンツにはなんかしら短所がありますし、追い続けるとどっかこっか不満点は出てくるものですが、どこからもなんとかしろという声が上がらないのでしょうか?坂上Pより上の立場の人間は何も言ってこないんでしょうか?殿様商売というものは余裕があってようござんすね。

 

*1:薫はA型、周子はB型、風花はO型、霧子はAB型

*2:バンドリなんて低年齢層が多いのか二次創作の層が薄すぎて、μ'sの頃からラブライブ!のファンコミュニティに参加していた人の地盤があるとはいえ現時点(アニメ化直前)のニジガクの方がまだ盛り上がってる気がする。