純愛コンビに見るゾンビランドサガの本質

 ゾンビランドサガという作品は紺野純子が圧倒的に一番人気という感があって、水野愛と純子が恋人のような関係になる二次創作が多いのであるが、基本的には一期の段階では互いに理念に理解はして居ても共感は出来ていない、違った手法で頂点を極めたライバル同士という意識が強いはずなのである。*1

 愛には「記憶を戻したさくらが居る」と言いたいけど、ともすれば事務所からバーターでねじ込まれたドラマの、余りに棒読みで本人ですら黒歴史に葬り去りたい演技すら、目を輝かせて「愛ちゃん凄い」とか言ってしまいそうで、理解者じゃ無く崇拝者に近い立場になる気がする。

 純子に対し「接触系イベントにでないことが『私の個性』だと言ってやれ」と言った巽だって、なんせ最初は純子が「アイドルグループに参加すること」への不安に対して「グループ活動の経験が無いなんてボッチ」と嘲笑したり、「愛と純子が引っ張れば活動には問題ない」程度に考えていて、6話の直前に決定的な対立の可能性に気がついた程度*2で、あの発言が口からでまかせの方便とは言い過ぎにしても純子の考えの理解者というにはほど遠い。


貴種流離譚物の主人公のような水野愛

 愛も純子も絶頂期に突然の事故死に追いやられたという境遇は全く同じだが、実際にアイドルへ取り組みも微妙に温度差があるように思える、愛は生きていたとしてもまだギリギリとはいえ女性がアイドルが出来る年齢であり、彼女の性格も相まって「10年経ってゾンビとして蘇り、『フランシュシュの3号』という偽名を名乗り再びスターダムに上り詰めようという野心すらもっている。」その野心はまるでシャアやルルーシュのような貴種流離譚物の主人公である。

 対して純子は35年前で、愛・さくら・リリィ・巽の母親と同年齢でもおかしくないどころか、同僚アイドルに孫が出来てもおかしくないくらいの時代が経ち内気な性格もあいまってさくらに死因を語るにも「参りましたよ」と思い出話を語るノリで語っている。

 まあ、純子がさくらと同世代でも純子が野心ギラギラ滾らせてまたスターダムに昇ろうとは思わないような気がするけど、いずれにしても紺野純子が水野愛の野心の共感者になるとはちょっと思えない。そもそもフランシュシュがトップになるためなら愛は自らは下がれることはたやすいだろうが、純子はそんなことは出来るような子ではないだろう。

ゾンビでなくてもあり得た対立、ゾンビだからこその結論

 昭和と平成というレッテルを剥がして二人の考えを簡潔に書くと、「リアリストの水野愛」「ロマンティストの紺野純子」「努力を見せる愛」「努力を隠す純子」。この対立というのは、本作ならではと言うよりも仮に世代が同じもの同士でもありえるし、実際幾度となくアイドル系コンテンツにおいて対立は描かれた。

 これまでのコンテンツの本作の違いは、それぞれの時代で違うやり方で頂点を極めたもの同士の対立とすることで、妥協点を見いださないまま走らせるための理由付けとして機能していることである。純子は握手会には参加せず、「昭和のアイドル」として振る舞っている。

 しかし、例えば『Bang Dream!』にPastel*Paletteというアイドルバンドが居るが、努力家で理想主義者の丸山彩が大雨でびしょ濡れになれながらもチケットを売る光景に、バンドからの対立を考えていた子役出身で徹底的なリアリストの白鷺千聖が心を打たれて翻意にするというストーリーであったように普通ではどちらかが折れて矛が収める話が圧倒的に多いのである。

 アイドルとしての目的自体は二人とも同じにしても目指す方向性をどちらも曲げずにこのように同じグループに属す。これを認めるのは生前に純子が圧倒的な実績があってからこそ認められることなのである。これがサキやさくらだったら視聴者ですら「何言ってるんだ?」となるのでは無いか。

ゾンビランドサガにおけるリアリティの担保

 さて、純子の圧倒的な実績と書いたが、アイドルとしての実力は純子が上というイメージが強く、というか、「実力はそれほどでも無い」と「あんたは死んだから伝説になれたんだ」と言わんばかりの追悼記事を見る限り公式においても実力は純子>愛*3とされているように思えるが、こと純子と愛の関係においては「握手会商法で売れてるだけ」という視聴者の平成アイドルへの偏見と過小評価と昭和アイドルへの思い出補正が本作におけるリアリティあるいは時代考証の担保であるように思える

 実際スタッフインタビューのさくらのキャラデザにおけるモデルは橋本環奈とか、愛のモデルは前田敦子とか言った時点で露骨なまでに嫌悪感を示した人がゾンビランドファンには少なくない。これは史料が揃っていて、学者からアマチュアまで数多の研究者が居るミリタリーものや歴史物じゃ絶対に通用しないやり口であるが、ゾンサガという作品において世代の違いは話の枝葉であるからこそオミットできたのであろう。

ゾンビランドサガの話の本質

本作の話の本質はズバリ「巽幸太郎こと乾青年が10年前に死んだ片思いの少女を蘇らせて、彼女の生前の願いを叶える話」であり、本作は巽の巽による巽のための作品と言って良い。その本質はおそろしいほどシンプルでミニマムである。巽幸太郎を中心とした変形ハーレムアニメと言っても良いかもしれない。

スタッフインタビューで「巽が嫌われたらこの作品は終わりだ」という事を語っていたが、スタッフ・キャストともに巽の描写には細心の注意を払ったに違いない。

実際に巽のしていることなんて「洋館に女の子を軟禁させてアイドル以外の選択肢を奪ってアイドルさせる男」「高校時代の思いを10年も引き摺る」なんていう犯罪の臭いしかしないヤバい男で、嫌われて当然の男を上手く好感の持てる存在にしたスタッフの力量の勝利であろう。

しかし、一期のうちは巽の巽による巽のための作品、巽のためのフランシュシュで良いが、話を続けていれば、ゾンビは最終的にどうなるのかという問題が横たわってくる。まあ、成仏させるか存在を認めさせるしかないのであるが、どうするのかスタッフの力量が今後も問われ続ける作品である。

*1:近年の風潮を見ると、二期になると二次創作の設定が逆輸入されて妙に二人の距離感が近くなったりするかも知れないが、一期を見る限りでは10話のハイタッチくらいしか、仲の良い描写はなかったりする。

*2:漫画版9話より

*3:作中ではお互いの時代の頂点同士とされているのですなわち、本作では昭和のアイドルは平成のアイドルよりも実力が上ということになる