五輪のデザインの混乱を巡る雑感

五輪のデザインを巡って混乱が続いています。


佐野氏のデザインを擁護したら「デザイナー村」の工作員認定され、擁護意見を言えないような空気が蔓延し、ともすれば「悪魔の証明」やら「推定有罪」の欠席裁判が横行する現状はまるで原発事故後のエネルギー業界みたいな状況です。原発事故の時には電力会社側を擁護していたのに、今回の案件では魔女狩りをする側になる例が散見されるのは、人間の業の深さを感じざるを得ません。

それはさておき、この問題の発端は、盗作疑惑やら建設費に対する公憤よりも、「このデザインが嫌い」という素朴な感情が発端になっているように思えてなりませんが、国立競技場もエンブレムもどちらも、専門家による泥のなすりつけあいがなされ、専門性の高い分野に庶民感覚なる暴君が入り込み混乱の渦に巻き込み、結果その業界を不幸に貶める自体という点では酷似しております。

このような状況が続くことは誰も幸せにはしません。悪いのは舛添だという人がおりましたが、それなら森喜朗氏は組織委員会の会長なので、遙かに責任がある立場なのにエンブレム問題は何も発言しておりません。おそらくは、これ以上混乱が続いたらまた鶴の一声でエンブレムを撤回されるおつもりなのでしょう。

仮に森さんが撤回すれば「森さんの英断」として森さんの株は上がるでしょうが、1人のデザイナーのキャリアは間違いなくそこで終了しますし、自殺でもされたらそれこそ五輪への汚点です。私はデザインに関するJSCやら文科省の設定ミスがこの問題の発端なのではないかと考えております。

前衛的なデザインのコンテストではなく、全国民がステークホルダーとなるデザインに求められることは全ての国民に愛されるまでは行かなくても、全ての国民が納得する堅実なデザイン、どこからも文句が言われないデザイン。誤解を恐れずに言えば陳腐なデザインとも言えるでしょう。

国立競技場だって最初からゼネコンに任せたり、エンブレムもあまたの一流企業のロゴを手がける企業に任せていれば、彼らはツボやノウハウを抑えており前衛的な物は出来ていなくても、国民の大多数が納得するデザインを作ることは可能だったでしょう。

日建設計執行役員の山梨知彦さんによると大型建築の設計において依頼主からは「デザインなんか間違っても凝らないでね。機能が満たされていれば良い」と言われ、いざ出来たら「デザインがないとつまらない」と言われる方が珍しくないのだという。だからこそ「デザインをしたたかに密やかに仕込む」の有能な建築家の条件なのだといいます。

まさにこれはデザインの世界全てに言えることではなのではないのでしょうか?デザインを前面に押し出すと叩かれるが、押し出さない本当に陳腐なデザインはつまらないと言われる。その微妙なさじ加減を文科省は誤ったように思います。

思えば、「選手村を水素エネルギーで」とか言ったり、国立競技場も多少難しくても日本の技術で実現をという話が合ったほどで、あくまでもスポーツの祭典であるはずの五輪が日本の技術や才能をアピールする場と文科省は考えてるとすればそれはとんでもない思い違いではないのでしょうか?

水素技術とデザインをアピールしたいなら仙台で万博の認定博をやればいい話で、野心を起こさずスポーツの祭典に徹することこそがアスリートファーストなのではないでしょうか?