電気は気に入らない人物を殴る棍棒ではありません

 小泉進次郎環境大臣が「石炭を減らしていきたい」とインタビューで答えて炎上しているそうですが、原発も石炭も嫌だでなんで発電するのかとか最新鋭の発電所は環境に良いのにとかいう意見が目立つのですが、これ進次郎の個人的な思いじゃなく環境省の省益に沿った発言なのです。

 そもそも論として環境省は、最新鋭だろうがヘチマだろうが石炭火力に否定的で、石炭火力を推進したい経産省と対立関係にあります。実際処理水を海に流したいと発言して称揚された
原田前環境大臣も「環境大臣の立場としては」石炭火力に否定的で、「厳しい姿勢で臨む」としています。

 原田氏には、所轄外とエクスキューズしたとはいえ止めるときになってこういう発言を言うのはいかがな物かと思いますし、言ったからには福岡5区選出とはいえ、一議員としてフリーハンドの立場の強みを生かして何かアクションしないと無意味だろうと思いますが、それは置いておいて。

石炭火力発電がそもそもどのくらいあってどのくらい建設されている物なのか。石炭火力に反対の市民団体のサイトからの引用で申し訳ありませんが、現在運転中の石炭火力発電所は4341.6万kWに対し、新規計画は2133万Kwなので49%増となる大幅な増大が計画されていました。

 その多くは老朽化した原発の代わりと言うよりも東電の市場を奪うために商社・石油会社と60Hz圏の電力会社によって計画された首都圏用の電源で、中には東京から遠く離れた秋田に発電所を設ける計画もあります。

 電力の小売というのは自前の発電所がないと儲からないビジネスなので、一番安い電源に向かうのは自明の理なのですが、仮にこれが全て建設されると電力市場が崩壊しかねないくらい急激に増える量です。

そうしたこともあり、環境省は新設反対に回ったのですが2016年には

  • 火力発電の効率に数値目標を設定、効率の悪い設備は休廃止
  • 再生可能エネルギー原発を合わせた非化石電源の利用を合計で原則44%以上にするよう電力会社に求める
  • 発電所のCO2排出量などの情報の開示
  • 電力業界は削減計画を誠実に実行

という厳しい条件付きで建設是認に傾きました。

しかし、パリ協定を境に再び環境省は態度を硬化させていき、さらには石炭プロジェクトへの融資が海外の株主から批判されることを恐れた邦銀や商社が融資やプロジェクトからの撤退を表明し出します。発電所というのは10年掛けて建設し、3~40年掛けて資金を回収する息の長い事業にも関わらず、数年で態度を二転三転させる国の姿勢について行けなくなったのか、上のリンクをみるとおわかりの通り、建設中止が目立ち始めます。

以上のように、進次郎は少なくとも環境大臣として環境省の方針に従った発言をしたまでです。

ですから、おかしいのは進次郎ではなく環境省であって、国です。

もう一度言います。おかしいのは国です。

ハッキリとしたリーダーシップとビジョンを示していない歪みはいつか大きなつけとなって国民に跳ね返ってくるでしょう。

さて、話は変わりますが同じく電力絡みで房総半島の停電で、自由化で設備投資を怠ったことが原因と批判する声が左右から聞こえてきますが、そもそもどの程度の風力に耐えられるのか丁度1年前に東京電力に取材した記事が残っていました。

weathernews.jp

 

「電柱の倒壊防止については、経済産業省の『電気設備に関する技術基準を定める省令』に、風速40m/sまで耐えられるようにつくることが定められています。当社はより安全を考慮して、省令で定める風速を超過しても倒壊することのないよう、設備構築を実施しています」(東京電力総務・広報グループ)

「風速40m/s以下でも、倒れた樹木の巻き添いになったり、大型車に衝突されたり、あるいは重量物が飛んできてぶつかれば電柱は折れたり倒れることがあります。しかし、当社管内において暴風などの風が直接の原因で電柱が損壊した事例はありません」(同)

仮に設備投資を怠ったから倒れたというなら、老朽化した電柱が風速40m/sを遙かに下回る風速で多数倒壊しているか、安全係数を40m/sギリギリまで落した原発事故後に立てられた電柱が倒れていないとおかしいことになります。当時の瞬間最大風速は千葉市で57.5m/sと最低の基準を超えていることになります。

安全率がどのくらいかは解りませんが、1.5倍の安全率なら風速60m/sが限度で、まさに「設計通りに耐えて設計通りに倒れた」ことになります。さらに言えばリンク先にあるとおり電柱が耐えられても電線に木やトタンが引っかかれば電柱は倒れます。

障害物が原因で倒れた電柱と、風に耐えきれなくなった電柱の割合がどのくらいの割合なのかなど今後の検証がないと解らないことが多い中で不確定要素を断定する行為は、復旧行為の妨げですらあります。

 例えば、仮に木々が倒れて停電に至ったケースが多いとすればそれは里山を放置した自治体の責任ですし、台風対策の最適解は電柱地中化であり、これは電力会社の事業ではなく自治体が行う公共事業であり、停電被害の拡大に関する自治体の責任は少ない物ではないのではないでしょうか?

もっとも被災地の南房総なんて下水の整備すら進んでない状況で地中化は一番立ち後れる地区になるのでしょうが・・・。

こうしてみてみると、皆さん本当は電気について興味は無いんじゃ無いですかと言いたくなるんですよ。自分たちの気に入らない人物や世の中の風潮を殴る棍棒として電力会社や電力システムを使ってるに過ぎないのではないかと。

同じインフラ系でも鉄道マニアというのはしばしば部品を盗んだり、写真撮影の為に木を切り倒したり、迷惑極まりない存在ですが、一つだけ利点があるとすれば興味を持って能動的にニュースを集め、体系的かつ最新の知識があることです。

他方、電力関係は原発容認派も反対派も数年前の古い知識を未だに振りかざす人のなんと多いこと。おそらく本当にまともに知識のある人は守秘義務がある立場だからSNS似書き込めないが故にさらに偏見に悪循環となっているように思います。

 

【京アニ考】原作があっても放ち続けた強い個性

 本稿を書き上げる前にあるネットニュースに目が留った。それはブシロードの創業者の木谷高明氏がある専門学校の講演で語った「作品には『作家性の作品』と『エンタメの作品』の2種類があり、ブシロードの作品は全て後者である」という発言である。*1

 この講演が行われたのは7月18日で事件の二日前のことであるが、木谷の頭の片隅には同じような女子高生のバンドをテーマにした『BanG Dream!』と『けいおん!』との比較で前者はエンタメ指向だが、『けいおん!』は作家性の強い作品という認識があったのかもしれない。

 しかし、まちがっても『けいおん!』の原作は背景の書き込みが細かいな作品でもなければ、
作家性が強いわけではなく、『まんがタイムきらら』の数ある、それも凡庸な作品の一つであり、
どちらかと言えば『BanG Dream!』のように「エンタメの作品」と言っても良い作品であった。
けいおん!』の作家性は京都アニメーションの制作陣によって付加されていったものであると言って良いのだ。

原作がありながらも京アニ作品としての強い個性を発揮した

 京アニフィルモグラフィーを見てみると実は殆どが何かしらの原作のある作品である。
しかし、この会社の異色さはなんと言っても、例え原作があっても「京アニ作品」と認識されると言うことである。例えば、これが東映アニメーションであれば「鳥山明ドラゴンボール」と認知されても「東映アニメのドラゴンボール」と認知されることはあまりないだろう。原作がありながらも強い主張をする創作者集団は私の知る限りではディズニーと宝塚歌劇団しか存在しない。

 他方、実は元請けとしての出世作となった『AIR』から『けいおん!』のあたりまでアニメファンの評価は「原作通りにアニメにするスタジオ」というものであった。前述の『けいおん!』を見ても解るとおり「原作通り」とは何を持って「原作通り」と定義するのか今一判然としないのであるが、今にして思えば他社と比べ10年先を行くと行っても良いオーバーキルな作風を前に、アニメファンも頭を整理できずに出た言葉が「原作通り」という言葉だったのかも知れない。

地方だからこそ高待遇・高クオリティが生まれた

 京アニの特徴で良く言われていた「好待遇」「地方発」「自給自足」「高クオリティ」と言った要素は、地方である以上業界でトップレベルの好待遇で迎えないと人が来ない、何かあっても頼れる人が居ないから自給自足でやらないとどうしようもならない。常に同じスタッフで製作するから高度なチームワークで仕事が可能でクオリティが上がるなど、京アニの個性として上げられる点は全て一本の線で繋がっていたように思える。

 もし、これが東京のスタジオなら例え好待遇で雇っても、仕事は引く手あまたなので引き抜きが頻発するだろうし、何かあっても他のスタジオに頼れただろうし、ここまでブランド化したスタジオにはならなかったのではないか。

 こうした現場ファーストの姿勢はKAエスマ文庫の創刊に結実する。アニメ会社のみならず、マンガ・アニメ・ゲームを扱う会社は、サンライズの『ガンダム』シリーズのような自社のIP(知的財産)を持たないと儲けられない。しかし、京アニは熱心なファンですらオリジナルが苦手な会社と目されていた。

 おそらく、その弱点は自らも知悉の上だったのだろう。そうした弱点をカバーするために「京都アニメーション大賞」というコンクールを新設し広く作品を公募。優秀な作品を文庫本として出版し、それをアニメ化させるサイクルが生み出されていった。

 動画の質はどんどんと東京のスタジオもキャッチアップされ、かつてほど作画で差がつかなくなったことは否めず、またアニメを巡る情勢も、ソーシャルゲームといった新しい娯楽の台頭やパッケージソフトの売上低迷と配信サイトの台頭などめまぐるしく変化をしていった。

 そんな中でも京アニは原作があっても出てくる強烈な個性を放ち、ゲームでいえば奇しくも同郷の任天堂のような「ひと味違う」異色の存在として存在し続けた。

現場ファーストが裏目になったかのような悲劇

 悲劇の現場となった第一スタジオは比較的新しいスタジオで、おそらく建設当時の設計思想は現場のコミュニケーションの為に開放感のあるスタジオがコンセプトだったのだろう。

 もし、中心部の防犯体制がしっかりしたオフィスビルを借りていたのであれば少なくとも京アニのスタジオへの凶行は避けられたかも知れないが社員の通勤のしやすさを考えてあえてあの地に建設したのではないか。*2

 犯人がどのように京都アニメーションの存在を知ったのか、まだ知るよしがないが、もしその作家性と小説を募集していることが私怨を募らせたとすれば、まるで京アニのこれまでの活動が全て逆回転するかのように悲劇を繋がっているかのようであまりにやりきれない。

 10億を超える多額の寄付金が寄せられサーバールームにあったサーバーにはデータが残っており、パンドラの箱の底にのこったわずかな希望を頼りに会社が立ち直ることを祈るのみである。

*1:https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20190722037/

*2:もっともそうであれば京アニゆかりの地で通り魔的な犯行を行っていた可能性は高かっただろうが

南極観測から自衛隊が撤退するかもしれない話

 産経新聞によると海上自衛隊南極観測船しらせの運用から撤退したがっているようで、というかこの原稿を書いてる時点では産経しか報じておらず飛ばしの可能性も捨てきれないのですが、理由としては「背景には海自の深刻な人手不足がある。日本周辺や南シナ海などで任務が増え続ける一方、昨年3月時点の隊員数は定員の93.2%にとどまる」(産経)とのことです。

 

重要なポイントとしては、

  1. 現在の南極観測の予算は文教費から出ている
  2. 南極観測自体は今後も継続する
    という二点に注意してこのニュースを解説しましょう。

そもそもなぜ自衛隊が南極観測

では、そもそも論としてなぜ自衛隊が南極観測を行っているのでしょうか?国立極地研究所によると以下の記述があります。

船の運航とヘリコプターの運用ができる人員を、継続して確保できる組織として、海上自衛隊となりました 
https://www.nipr.ac.jp/science-museum/qa/etc.html

ここからは私の推測なのですが、時代をさかのぼり昭和30年代の南極観測というのはまさに国民の誰が関心を抱く国家プロジェクトであり、ただの研究者の研究だけにとどまらない冒険そのものでした。

軍隊や自衛隊というのは自己管理能力が高いですし、軍人は訓練され精神的・肉体的にタフネスであると考えられています。実際に初期の宇宙飛行は米ソともに大半が現役軍人でした。

自衛隊にも協力したい事情

また、自衛隊としても南極観測に是が非でも協力したい事情というものがありました。自衛隊法には以下の記述があります。

(運動競技会に対する協力)
第百条の三 防衛大臣は、関係機関から依頼があつた場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会の運営につき、政令で定めるところにより、役務の提供その他必要な協力を行なうことができる。
(南極地域観測に対する協力)
第百条の四 自衛隊は、防衛大臣の命を受け、国が行なう南極地域における科学的調査について、政令で定める輸送その他の協力を行なう。
国賓等の輸送)
第百条の五 防衛大臣は、国の機関から依頼があつた場合には、自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において、航空機による国賓内閣総理大臣その他政令で定める者(次項において「国賓等」という。)の輸送を行うことができる。
2 自衛隊は、国賓等の輸送の用に主として供するための航空機を保有することができる。

「国際的若しくは全国的規模又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会」というのは具体的には国体・オリンピック・パラリンピックラグビーワールドカップサッカーワールドカップなどが対象ですが、「100条の5 国賓等の輸送」や「100条の3 運動競技会の協力にある自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度においてという文言が「100条の4 南極地域観測の協力」にはないことに気が付かされます。つまり、自衛隊法の上では五輪の協力よりも優先度が高いと解釈することもできるのです。

これはどういうことかというと、阪神大震災まで国民が自衛隊に向ける目はどこか後ろ暗いものがあり、是が非でもイメージを向上し、隊員の士気を上げるような施策として、国民的関心事だった南極観測を利用したのでしょう。昭和30年代当時はまさにWin-Winの関係であったといえるでしょう。

南極観測の今後は

 自衛隊は「本業」である、防衛任務や災害派遣の頻度が増しております。また、このニュースを見て反安倍派の人が「日本が南極観測をやめる」とか「防衛予算で南極観測が行われている」と早合点して批判したり、自衛隊によるしらせの運用の継続を主張していましたが、先ほど挙げたように南極観測は文教予算から支出しております。

 こうした早合点は皮肉にも南極観測への関心の低下と、自衛隊の地位が向上し自衛隊が観測に協力する意味合いが薄れていることを証明しています。

 しらせが現在の「軍艦」から例えば「海洋研究開発機構の船」になれば自衛官OBや民間委託などの人材確保に柔軟性が増す可能性も高くなります。

もっと南極に関心を

 しかし、南極観測への関心が薄れ続けると、南極観測自体の継続性が危うくなってくるのも事実です。スポーツにしろ科学にしろ、結果があったり政権を批判するときだけしか興味をもたれないということが往々にしてありますが、財政民主主義という言葉がありますが、税金から支出する以上は国民が常に科学技術の進歩に関心を持たないと支出する動機が無くなってしまうのです。

マイナースポーツとされるスポーツの選手が異口同音に「五輪でメダルを取っただけしか注目されない」と嘆かれていますが、文教分野というのは華やかな結果だけが注目されやすいですが、その背後には幾千万の失敗の屍の上に成り立っているのです。成功のみを消費し、それに満足するのはするのは政策のクリームスキミングであり、進歩の後退ではないでしょうか?

これは酷い「みんなで叶えるディストピア」ですね

 

 紙幣の左右反転疑惑、燃やしているのは韓国から渋沢栄一の肖像を採用することが大して燃えなかったせいなんじゃないかと思うし、ネットで話題と言うけど、その割にマスコミ報道で初めて聞いたのですが、日経に大蔵省OBの人のインタビューを交えて、こういう経緯を紹介している。

 

 

 植村峻氏(引用者注:大蔵省印刷局で紙幣の製造業務に携わり紙幣研究をしている方)は「紙幣肖像の目的は、モデルの持つ内面まで表現して生命力のある肖像を作成しようというもので、決して写真の正確な模倣ではない」と言いきる。実際、1951年に発行した500円札では明治の元勲・岩倉具視の肖像を左右反転して用いた。原型は1989年(明治22年)に外国人彫刻師のキヨソーネが完成させた大型の彫刻作品だ。オリジナルでは顔は右方向を向いており、大礼服を着用して胸に勲章を付けていた。お札では姿勢を左向きに代え、蝶ネクタイの洋服姿にして印刷した。(強調は引用者)

bizgate.nikkei.co.jp

 このほかにも偽造防止対策として肖像画が世界的にも大きくなる傾向で、現紙幣より1.3倍も拡大しているなど面白い話があるので一読してほしいが、もしこれが津田塾大学が文句を言ってるならディスコミュニケーションの問題ではあるけど、いずれにしてもあくまでも「写真を参考にした絵」であれば左右が逆でも問題が無いはずだけど、あまりにPhotoshopが普及しすぎて「写実的なものは全て写真の加工品」という認識がされているのではないかというのが話の根本じゃないかと。

 

 そもそも、英数字をデカデカと載せるのは紙幣として品格がないとか真ん中じゃないのはおかしいとか、ホログラムを変な帯扱いしたりとどうもケチをつけたい人が多い。この現状はまるで、東京オリンピックのサノケンエンブレムか、国立競技場のザハ案を思い出す。

 

 しかし、思うのはその道何十年のプロの感覚よりも素人のおかしいという因縁の方が力を持つ時代なのだと言うことである。「写真を参考にした絵」であれば問題ないと言ったけど、それすら目トレスなんていって因縁を付けられるご時世である。素人の合議の当たり障りのないデザインやプロダクトがよいデザイン・よいプロダクトという時代なのかも知れない。

 

 実際公共建築だって90年代まではデザインに凝ろうとしたけど、いろいろあって今じゃイオンのショッピングセンターのほうが凝ってるってくらい味気ない建築ばかりになってきている。

 

しかし、素人の感覚の方が力を持つというのは自分の仕事が素人に叩き潰される番がいつか来ると言うことである。

 

紙幣だって、「国民の皆さんの意見を参考にして」パブコメを募集して、佐藤可士和あたりが座長の諮問機関を立ち上げて数案出してご意見を伺いしますとした方が確実に揉めなかっただろうが、そうして出来た物の何処に偽造対策やユニバーサルデザインなどが盛り込めるのか疑問である。

 

当たり障りのないというのは、先鋭さも進歩も何もないと言うことではないだろうか?

どう考えても新サクラ大戦が売れる未来が想像できない

昨日発表されたサクラ大戦の新作「新サクラ大戦」なのですが、テーマ曲とかはゲキテイの換骨奪胎という感じで良い感じなのですが、どうしてもこれが馬鹿売れする未来が見えないのですよ。

声優陣は豪華だけど歌謡ショウ出来るの?

 サクラ大戦は歌謡ショウという声優がそのままミュージカルをやる舞台がメディアミックスの一つの目玉で、今のラブライブ!やバンドリやスタァライトのような2.5次元の先駈けともいえるコンテンツです。

声優陣がミュージカルをやるのは子供からアニメとの声の違いを指摘されたというエピソードがスタァライトと似通っているという点では興味深いのですが、*1それはさておき、今回のキャストは豪華なのですが、歌謡ショウの練習に取れる時間って有るのでしょうか?

 それにお客さんも、2.5次元コンテンツに対する目は格段に肥えているはずだし、無名でもガッツリサクラ大戦に時間を取れる若手を中心に起用した方が良かったんじゃ無いですか?

藤島先生の代わりに久保帯人先生ねえ・・・

 藤島康介先生が降板して、久保帯人先生がキャラクターデザインを務めることになりましたが、交替自体はいろいろ藤島先生の評判も下がっていてやむを得ないとは思うのですが、久保帯人先生って言うのがちょっとピンときません。  20年前の藤島先生はテイルズオブシリーズでもキャラデザを務めていたり、マニア層では強い動員力のある人だったのですが、そういうポジションであるようには思えないんですよ。やるならキズナアイのキャラデザの森倉円先生の方が良かったのではないでしょうか?

主人公を魅力有る人物に出来るの?

 サクラ大戦の魅力はヒロイン以上に主人公です。ヒロインが変わることよりも主人公が変わることにクレームがついたというギャルゲーなんて後にも先にもサクラ大戦くらいでしょうが、大神一朗のような主人公像を提示できるのでしょうか?

今さら据え置き?

 これが一番の懸念です。ガチャへの批判はあれど、世の中で一番普及しているゲームハードって結局スマートフォンなわけで、今さらPS4据え置きなんて言われてもお客さんが受け入れるのでしょうか?

 セガの人達、サンジゲンのムービーが一杯有りますみたいなこと言ってますけど、そんな著名なスタジオの手によるムービーが一杯有りますなんてものが売り文句なんて10年も15年も前の時代錯誤がアピールをされても正直困惑します。

 それに、据え置きと言っても、ソフトを買ってお仕舞いじゃなく、なんだかんだでDLC前提でプレイする前提の仕様なんじゃ無いでしょうか?それだったらまだスマホの方がマシな気がするのですが・・・。

なんか平成が終わった後に、平成を回顧するようなソフトが出る感じなのですが、これが売れたら謝りますが、ちょっと売れる未来が想像できないのです。

一応リブートと言ってるので新規層なのでしょうが、サクラ大戦がヒットしていたときとは時代も、オタクシーンの主流も変わっており、昔のノリそのままなら新規層の取込は難しいと思うのですが・・・。

*1:スタァライトは子供じゃ無くブシロード木谷会長が違和感を感じたことが切っ掛け

最近気になる兆候を見せるきららの危機?

 もともと、きららのような雑誌は単行本の売上で黒字を出すビジネスモデルなだけに単行本の売上げの高低で打ち切りが決まり、またそれがシビアな傾向があったのだが、最近気になる傾向がある。

相次ぐ中堅作品の連載終了

 きららフォワードの『なでしこドレミソラ』を始め、『どうして私が美術科に!?』などきらら編集部から期待されていたと思しき中堅作品が昨年から相次いで終了している。それに加えフォワードはゆるキャン△芳文社が立ち上げる電子書籍サイトCOMIC FUZに移籍するなど「本当にフォワード自体が大丈夫なのか?」と心配したくなるような事態である。

作り手はアニメにならない作品は要らない!?

 打ち切りの傾向を見ていると、「アニメになれない作品は要らない」 という方針になっているような感がある。個人的な憶測や妄想の域なのだが、単行本の売上げプラスアニメの企画書をもって営業回りを行ってその結果が芳しくないと終了させるような方針になってるような感がある。まあ、10~15年前ならアニメにならない程度の企画でもアニメになる(せざる)を得ないアニメ業界の事情もあるのかもしれないが。

 もともと「内容はほのぼのだけど、競争はシビア」な雑誌ではあるが、アニメにならないようでドラマCD程度のメディアミックスが精一杯の中堅どころの作品(と行ったら失礼だけど)の居場所が無くなって、純然たるメディアミックスの為の雑誌になってるように思える。

 萌え4コマファンには周知の事実であるがそのそも2017年には末っ子的な存在の『まんがタイムきららミラク』が廃刊になっており、芳文社もきらら系雑誌の整理縮小傾向が進んでいるが、もともと、4コマ雑誌の高齢化が深刻になり「アニメファンに4コマを届けたい」というコンセプトで始まった雑誌であるが、考えれば最近の話題の中心はソーシャルゲームに移っているのも事実で、仮にオタク層が増えているという状況でも無い限り、可処分所得と可処分時間の奪い合いであるのは明らかである。

受け手はソシャゲがあれば何も要らない!?

 問題はそのソーシャルゲームがどんどん進化していって、今ではフルボイスでLive2Dで動き、プレイヤーとキャラクターのみならず、キャラクター同士の関係性を描くのがもはや当たり前になっているということである。女性キャラクター同士の関係性を描くというきららの魅力に「上位互換」の存在として現れてきているのである。しかも、ゲームは集団作業であるので投入する速度が速く、キャラクターも豊富で無限に話題を作れると言うことなのだ。

 この影響はラブライブ!や艦これにも現れていて、近年明らかにライブコンテンツに展開が偏っている感があるが、2013年とアニメファン向けソーシャルゲームの初期に出された作品が明らかに時代に合わない物になったのに、出せる武器がライブコンテンツしか無いという実情もあるのだろう。ラブライブ!に関しては運営はこの状況を百も承知のようで、スクスタという新作を出す…のだが数年単位で遅れているのが実態である。 

さらなる刺客ときららの対抗措置

 さらに一昨年末頃からあらたな資格が出てきた。それがVtuberである。彼女たちの出現当初から、「終わらない日常系」と評する向きもあったのであるが、例えばにじさんじの「オタクの学級委員」などのようなキャラクター造形ははきららに出ていてもおかしくないキャラクター造形であるし、そもそもソーシャルゲームもそうなのであるがガッツリと嵌まってしまうと割と時間を消費してしまうコンテンツであり、可処分所得と可処分時間の奪い合いという点では内容がではなく情報量がというプアーなコンテンツである4コマはどうしても不利になってしまう。

 話をきららに戻すが、もちろんこのような状態を芳文社をくわえてみている状況では無く、『きららファンタジア』というソーシャルゲームをリリースしているが、問題は常にソーシャルゲームには話題性が必要とされてると言うことである。

 一番手っ取り早い話題作りと言えば、ある作品をアニメ化してその作品を参戦させるのが手っ取り早いと言うことになる。

まとめ

以上のように現在のきららは

  1. 新たなメディアの普及
  2. きらら離れ
  3. 対抗としてのソーシャルゲーム参入
  4. 話題性のある作品を欲する動き
  5. アニメ化偏重の編集方針
  6. アニメ化できない中堅の打ち切り

という流れが起こっているというのが私の仮説だが、しかしキャラ萌えという同じ土俵で対抗すると言うのであれば「投入される速度が速く・常に声があり・フルカラーで動く」ソーシャルゲームVtuberに太刀打ちができるわけが無い。萌え4コマにしか出来ないことを提示していかないと厳しい言い方をすれば淘汰されてしまうと思うのであるが…。

純愛コンビに見るゾンビランドサガの本質

 ゾンビランドサガという作品は紺野純子が圧倒的に一番人気という感があって、水野愛と純子が恋人のような関係になる二次創作が多いのであるが、基本的には一期の段階では互いに理念に理解はして居ても共感は出来ていない、違った手法で頂点を極めたライバル同士という意識が強いはずなのである。*1

 愛には「記憶を戻したさくらが居る」と言いたいけど、ともすれば事務所からバーターでねじ込まれたドラマの、余りに棒読みで本人ですら黒歴史に葬り去りたい演技すら、目を輝かせて「愛ちゃん凄い」とか言ってしまいそうで、理解者じゃ無く崇拝者に近い立場になる気がする。

 純子に対し「接触系イベントにでないことが『私の個性』だと言ってやれ」と言った巽だって、なんせ最初は純子が「アイドルグループに参加すること」への不安に対して「グループ活動の経験が無いなんてボッチ」と嘲笑したり、「愛と純子が引っ張れば活動には問題ない」程度に考えていて、6話の直前に決定的な対立の可能性に気がついた程度*2で、あの発言が口からでまかせの方便とは言い過ぎにしても純子の考えの理解者というにはほど遠い。


貴種流離譚物の主人公のような水野愛

 愛も純子も絶頂期に突然の事故死に追いやられたという境遇は全く同じだが、実際にアイドルへ取り組みも微妙に温度差があるように思える、愛は生きていたとしてもまだギリギリとはいえ女性がアイドルが出来る年齢であり、彼女の性格も相まって「10年経ってゾンビとして蘇り、『フランシュシュの3号』という偽名を名乗り再びスターダムに上り詰めようという野心すらもっている。」その野心はまるでシャアやルルーシュのような貴種流離譚物の主人公である。

 対して純子は35年前で、愛・さくら・リリィ・巽の母親と同年齢でもおかしくないどころか、同僚アイドルに孫が出来てもおかしくないくらいの時代が経ち内気な性格もあいまってさくらに死因を語るにも「参りましたよ」と思い出話を語るノリで語っている。

 まあ、純子がさくらと同世代でも純子が野心ギラギラ滾らせてまたスターダムに昇ろうとは思わないような気がするけど、いずれにしても紺野純子が水野愛の野心の共感者になるとはちょっと思えない。そもそもフランシュシュがトップになるためなら愛は自らは下がれることはたやすいだろうが、純子はそんなことは出来るような子ではないだろう。

ゾンビでなくてもあり得た対立、ゾンビだからこその結論

 昭和と平成というレッテルを剥がして二人の考えを簡潔に書くと、「リアリストの水野愛」「ロマンティストの紺野純子」「努力を見せる愛」「努力を隠す純子」。この対立というのは、本作ならではと言うよりも仮に世代が同じもの同士でもありえるし、実際幾度となくアイドル系コンテンツにおいて対立は描かれた。

 これまでのコンテンツの本作の違いは、それぞれの時代で違うやり方で頂点を極めたもの同士の対立とすることで、妥協点を見いださないまま走らせるための理由付けとして機能していることである。純子は握手会には参加せず、「昭和のアイドル」として振る舞っている。

 しかし、例えば『Bang Dream!』にPastel*Paletteというアイドルバンドが居るが、努力家で理想主義者の丸山彩が大雨でびしょ濡れになれながらもチケットを売る光景に、バンドからの対立を考えていた子役出身で徹底的なリアリストの白鷺千聖が心を打たれて翻意にするというストーリーであったように普通ではどちらかが折れて矛が収める話が圧倒的に多いのである。

 アイドルとしての目的自体は二人とも同じにしても目指す方向性をどちらも曲げずにこのように同じグループに属す。これを認めるのは生前に純子が圧倒的な実績があってからこそ認められることなのである。これがサキやさくらだったら視聴者ですら「何言ってるんだ?」となるのでは無いか。

ゾンビランドサガにおけるリアリティの担保

 さて、純子の圧倒的な実績と書いたが、アイドルとしての実力は純子が上というイメージが強く、というか、「実力はそれほどでも無い」と「あんたは死んだから伝説になれたんだ」と言わんばかりの追悼記事を見る限り公式においても実力は純子>愛*3とされているように思えるが、こと純子と愛の関係においては「握手会商法で売れてるだけ」という視聴者の平成アイドルへの偏見と過小評価と昭和アイドルへの思い出補正が本作におけるリアリティあるいは時代考証の担保であるように思える

 実際スタッフインタビューのさくらのキャラデザにおけるモデルは橋本環奈とか、愛のモデルは前田敦子とか言った時点で露骨なまでに嫌悪感を示した人がゾンビランドファンには少なくない。これは史料が揃っていて、学者からアマチュアまで数多の研究者が居るミリタリーものや歴史物じゃ絶対に通用しないやり口であるが、ゾンサガという作品において世代の違いは話の枝葉であるからこそオミットできたのであろう。

ゾンビランドサガの話の本質

本作の話の本質はズバリ「巽幸太郎こと乾青年が10年前に死んだ片思いの少女を蘇らせて、彼女の生前の願いを叶える話」であり、本作は巽の巽による巽のための作品と言って良い。その本質はおそろしいほどシンプルでミニマムである。巽幸太郎を中心とした変形ハーレムアニメと言っても良いかもしれない。

スタッフインタビューで「巽が嫌われたらこの作品は終わりだ」という事を語っていたが、スタッフ・キャストともに巽の描写には細心の注意を払ったに違いない。

実際に巽のしていることなんて「洋館に女の子を軟禁させてアイドル以外の選択肢を奪ってアイドルさせる男」「高校時代の思いを10年も引き摺る」なんていう犯罪の臭いしかしないヤバい男で、嫌われて当然の男を上手く好感の持てる存在にしたスタッフの力量の勝利であろう。

しかし、一期のうちは巽の巽による巽のための作品、巽のためのフランシュシュで良いが、話を続けていれば、ゾンビは最終的にどうなるのかという問題が横たわってくる。まあ、成仏させるか存在を認めさせるしかないのであるが、どうするのかスタッフの力量が今後も問われ続ける作品である。

*1:近年の風潮を見ると、二期になると二次創作の設定が逆輸入されて妙に二人の距離感が近くなったりするかも知れないが、一期を見る限りでは10話のハイタッチくらいしか、仲の良い描写はなかったりする。

*2:漫画版9話より

*3:作中ではお互いの時代の頂点同士とされているのですなわち、本作では昭和のアイドルは平成のアイドルよりも実力が上ということになる