高輪ゲートウェイ駅撤回を主張する能町みね子の駅名への定見の無さが酷い

  コラムニストの能町みね子が高輪ゲートウェイ駅撤回を主張する署名がそれなりに好評なようだが、高輪ゲートウェイ駅はJR東日本が主催する再開発事業「グローバルゲートウェイ品川」予定地に位置しており、駅は港区港南*1で、高輪地区と芝浦地区の境界線。簡単に引き下がると思えないのであるが、それにしても駅名撤回を主張する能町みね子はその資格があるのかを問いたい。

放言のオンパレード

 地名マニアという能町は東京メトロ系のサイトで「能町みね子の駅名ソムリエール」なる連載があった。

「地名や駅の名前にはその地域の歴史に合ったようなものを残してほしい。」

という趣旨の元で独断と偏見で「江戸後期から明治始めくらいに使われていた、地域を代表する特徴的な地名か、もしくは、坂や寺など、その土地のランドマークとなる名称を新たな駅名」に付けようという趣旨の連載なのであるが、地名に興味はあれど命名に至った由来には興味が無いようで、銀座線開業当時からある「上野広小路駅」を「下谷広小路」に改名しろなど、明治時代からの瑞祥地名である浦安駅「昔からの漁師町なので、よし」と言ったり、*2その駅名になった経緯を無視した暴論がしばしば見られる。


一々突っ込むのも面倒くさいのであるがとりわけ酷いと思ったのはこの記述

青山一丁目〜表参道も、微妙だと思う。「青山でイベントがある」などと言ったとき、その会場は9割方、外苑前か表参道が最寄駅です。青山一丁目駅に用があることはそんなにない。にもかかわらず、「青山」という名前がつく駅は青山一丁目のみ。実際、私の知人で「青山でのイベント」に行く時に間違って青山一丁目で降りた人は何人かいる。これはゆゆしき問題ですよ!

 古い地名を大事にしろと良い、一方で東京駅は「都内をうろつく地下鉄で『東京駅』があるのも変な話」という、旅客案内という駅名に重要なファクターを無視した理由*3丸ノ内線東京駅は「丸ノ内で良い」とか言うくせに、青山一丁目駅北青山駅・外苑前駅は旅客案内上の理由から青山駅表参道駅は南青山駅に改名しろという。

 それにしても、北青山・青山・南青山なんて、太郎次郎三郎みたいな投げやり名称は余りに酷い。原稿書いてるうちに最後まで書くのが面倒くさくなったのだろうか?

 そもそも銀座線開業時は外苑前駅は青山四丁目駅、表参道は青山六丁目駅であり、百歩譲って青山に統一するなら開業時の駅名というならまだ解るが、そもそもこの人銀座線開業時の古地図読んでるのだろうか?

昭和初期の学園の名がダメで、1980年代に付けられた通りの名が良いとする矛盾

dogatch.jp
 この連載と同じ趣旨の企画をテレビでもやっていたようなのだが、そこでは極めつけとも言うべきとびきり酷い改名案が出てきた。

「自由が丘」を探ってみると、丘でさえなく、湿地帯だったことが判明。さらに、当時は田舎すぎて、ランドマークになる坂や寺すら見つからないという。苦戦する能町に対し、ヒャダインが「逆に今に寄るとか」とアドバイス。現在、駅近くの通りが「マリクレール通り」と呼ばれていることが分かると、それをそのまま駅名にすればいいという3人の意見が一致。「自由が丘」は「マリクレール通り」として生まれ変わった。

 マリクレールなる名称はマリ・クレールというフランスのファッション雑誌の日本語版が1982年に創刊されるにあたってできたタイアップ地名である。ランドマークになる坂や寺すら見つからないというが、駅設置当時の駅所在地が「荏原郡碑衾村大字衾」という地名なので改名するなら衾駅が妥当であろう。実際大井町線が出来たときの改名案がそうだったのだから。

 さすがに、地元の方から批判するTweetもあり、翌週に「マリクレール通りから衾沼駅にします」という訂正放送があったようだが、丸ノ内線開業当時からすれば付けようが無い「蚕糸の森公園」駅なんて駅名をランドマークだからと採用しつつ、

 自由が丘学園は「昭和初期の比較的新しいランドマークだから不採用」と自己矛盾を起こしてる。

燃えないところを選んで火を付ける

 そもそも論として「旧来の地名に復古しろ」というなら東京や大阪を東の京とか、坂は土に返る(=死ぬ)と読めるから縁起が悪いとかしょーもない理由で改名された江戸や大坂に戻せと主張すべきだろう。

 更に言えば、新幹線の駅なんて新●●なんて伝統もヘチマもない駅名の宝庫である。新函館北斗北斗市なんて10年前に出てきた合併地名であり、北斗なんて名前自体、特急北斗か寝台特急北斗星くらいしか当地に縁が無い。強いて言えば北海道のどこでも付けられるような瑞祥地名である。

 わざわざ田中角栄*4が出てきて、駅名は燕市、地名(=駅長室所在地)は三条市という形で落着した新潟県燕三条駅をどう改名すれば良いのか能町にご意見を伺いたいものである。新幹線の駅に手を付けたら流石に炎上するというのはわかってるのか、「顔はやめな、ボディにしな」的な理屈が垣間見える。

www.change.org

 今回の改名署名運動でも今まで散々放言を書き散らしたのに「(投票)上位3案のどれかがいいと私は思いますが、どれを選ぶべきかまでは明言しません。」と逃げる辺り能町の狡さが垣間見える。*5

 インタビューやchenge.orgの趣旨説明でもあれこれ理論武装してるけど、要するに「山手線なんて目立つところにこんな駅名は気に入らない」以外の何物でも無い。コラムニストになれればこんな居酒屋談義でも金を稼げるなんて羨ましい限りである(僻み)

 

*1:品川駅も住所は港南にあたる

*2:浦安駅のある猫実地区は鎌倉時代から有る伝統ある地名だが、津波の被害を受けて堤防を気づいて津波が来なければ良い(根越さね)と名付けられた地名である。

*3:それなら、地下鉄名古屋駅名駅駅、地下鉄仙台駅はあおば通駅にでも改名しないとならなくなる

*4:言うまでも無い新潟を代表する大政治家であるが、三条市の選挙区は田中が地盤とする旧新潟3区で、一方の燕市は旧新潟1区であった。

*5:そもそも「長すぎて事務処理的に問題が生じすい」というが、漢字書きでも高輪ゲートウェイより長い駅名はわんさかあるが一体誰の事務処理なのだろうか?

五輪の木材供出問題でちょっと言いたいことがある

タイトルの通り。すぐに何かの寄付を求めると戦争末期だと言い出すのはどうかと思うし、自治体は強制じゃなくて任意なんだからまずは落ち着けと。まるで選手村全体を木で作るかのような言い方もされているけど、ビレッジプラザという6000平米くらいの施設の建設を巡る話である。問題はあるにしても問題のポイントはそこじゃない。木材なだけに木を見て森を見ていないかのような対応こそが問題であるとおもうし、そのほかにも問題はいくつかあるので挙げてみたい。

量の確保はどうするの?


 募集要項には木であればゴミでも廃材でも良いわけじゃ無くちゃんとJAS規格じゃないとだめだとあるし、留意事項にはご丁寧に「すべての提供木材は組織委員会の定める調達基準を満足する必要がある。」とまであるが、五輪に使う木はFSC認証*1が得られていないとダメなはずでそんな木は国内林じゃまだそんなにないはず。ましてやビレッジプラザはCLT*2で建てたがっているようだけど、日本国内でCLTなんて普及がようやく始まった段階。そこまで厳しい条件を付けて、オマケに只でどこまで木材が集まるのか?

そもそも鉄骨造の方が安くて良いもの作れるんじゃ?

今の五輪の大義名分としてコスト削減が上げられてるのに、本当にCLTなんていうまだコストの高い技術を使う必要性があるのか。そもそもCLTは日本発祥の技術じゃなく欧州で相応に普及してきた技術。

6000平米ってちょっと大きなロードサイド型店舗並みの大きさで、鉄骨造ならノウハウも相応に普及してて地方のゼネコンでも建てられる規模で、地方のゼネコンに仕事を取らせてあげたほうがよっぽど地方の五輪参加じゃないのか。

そもそも鉄骨自体がリサイクルの優等生でここ最近の日本主催のサミットのプレスセンターは二日間だけ使って徹底的にリサイクルをして解体することを前提にした施設が建てられてるが、そうした建物にも鉄骨造が採用されており、豊富な実績と環境への配慮に優れた構造も可能。

木造が持続可能性があると言っても、それはちゃんと計画的にやったらの話だし、環境がテーマだった愛知万博だってそこまで木に固執してなかったでしょ。どうしてもというならGoogleで画像検索すれば解るとおり、サミットのプレスセンターは外壁に木の簾みたいのをかけているが、どうしても寄付木を使いたいなら構造的に無関係のこの部分に使えばよいだけのはなしじゃないか。

なんでこんな提案になったのかと言えば、公益社団法人日本建築士連合会がビレッジプラザを、都道府県毎に木造のユニットを作ってそれを東京に集めて、終われば戻すと言う提案があってそれが紆余曲折を経て木の提供という事になったんだろうが、ログハウスなんてものは西洋の木造建築だし、木造が日本らしいと考えるのは日本人くらいじゃないのか。


全ての混乱を引き起こす組織委員会のガバナンスの欠如と独善性こそ問題だ

これは強調しても強調したりない事だが、今回の件は小池百合子知事が横車を入れたからだと勘違いされてるが、建築主体は東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会森喜朗会長)という組織である。組織委員会と東京都は費用負担問題で森会長と小池知事が応酬を繰り返したように別の組織であり、表裏一体の組織というわけでは必ずしも無い。

しかしながら、他県へ費用負担を要請したりビッグサイトの問題など「五輪のためなら誰もが負担を厭わないだろう」という独善性は双方は一致していることは間違いない。

そもそもビレッジセンターを木で作り、ましてや寄付木で作る意味や意義、無償で提供することの重みを誰が検討して、誰が理念を納得できるように説明できるのだろうか。


ガバナンスと広報体制の不備は国立競技場のザハ案が挫折した際に文科省が作成した「新国立競技場整備計画経緯検証委員会 検証報告書」にJSCの問題点として挙げられてるが、JSCの失敗を他山の石としてそれから何を学んだのだろうか。五輪はみんなが賛成するから「広報なんては必要無い」「だれもが協力する」というのは余りにも驕った態度である。

更に言えば、森喜朗氏が組織委員会会長なのか私には理解が出来ない。私自身は森氏はマスコミの謀略で潰された人だと思うし、有能な政治家であると高く評価しては居るが、それは泥を被ることを厭わないからで、五輪の組織委員長としては、川渕三郎氏のような自らの著書に『独裁力』というタイトルと付け、サッカーのプロ化への批判を「時期尚早という人は100年後も同じ事を言う」と押し切り、日本代表人事を「言っちゃった」の一言でイビチャ・オシム氏をジェフ千葉から引き抜く強引さと非現実的なまでの理想に燃え、さらにはスポーツビジネスの世界においても様々な実績のある人物の方が五輪というイベントにふさわしいのではないかと思えてならないのだ。

一つの方向に傾くとブレーキの効かないネット世論

今回ネット世論が盛り上がった点は、まずリフレ派の存在もある。彼らにすれば五輪は極論すれば金を出す良い山車のとしての利用価値しかなく、ソチや北京のような金に糸目を付けない従来型の開発型五輪こそが良い五輪なのである。しかし、招致レースの不人気振りをみると開発型五輪はもはや限界に達していることも事実であり、もはや五輪は迷惑施設ならぬ迷惑イベントとなりつつあるのである。

日本の寄付というものは寄付文化は育たないが故に奉加帳方式が主流なのだが、ネット社会においては「強要」「同調圧力」への強いアレルギーがあることも挙げられるだろう。しかしながら、全ての「強要」を否定する訳ではなく、多数のボランティアが運営を支えるコミケはむしろボランティアの運営に対しては好意的なようにあるが要するに、「嫌な者から押しつけつらける強要は良いが、自分が良いと思う強要はよい」更に言えば「権威は嫌だが、自分を認める権威はウェルカム」というダブルスタンダードに陥っているのではないか。

今回の件で一番恐怖すら覚えたのは、加計学園問題や共謀罪に対してマスコミを批判していたことは事実を無視してすぐに小池知事が悪いと批判したり、大東亜戦争末期になぞらえる論調が頻出したことである。

「事実を丁寧に調べれば加計学園に対して安倍政権の行動は問題無い」と言っていた人が、五輪になれば事実関係を無視して批判する。五輪とは話がずれるがさかなクンですら資源管理に関する論調でもウナギが一番危機的なんて私の知る限りでは言ったことが無い*3のに、勝川准教授のネットの放言をどこまで正しいのか検証せず、台湾で絶滅危惧種になったからもはやウナギを食べること自体が悪だ。業者は潰れても構わない。魚自体食べるべきじゃないという極論が展開されることである。

レガシーメディアと同様に一つの方向に傾くとブレーキが全く効かず、極論こそ正論であるかのような論調が展開されるのである。

もし今後戦争の開戦や民主主義を否定する世論が出てきたときにもし一つの方向に傾くとおそらくこの国は一切の軌道修正も出来ずにそうした方向に流されると私は強く強く強く確信した。

ウナギだってもしかしたら今後焼き討ちや養殖場を襲って自然に帰そうなんてエコテロリストが出てきてネットで共感されるかもしれない。

実際にそうした萌芽は既にあちこちに出ている。もし戦争が起こるのであれば五輪を開催したことが戦争になったのではなく、軌道の出来ない国民そのものではないのだろうか。

*1:森林の管理が行われたことを示す認証

*2:ひき板を並べた後、繊維方向が直交するように積層接着した木質系材料

*3:さかなクンはウナギの利活用自体は肯定しているが、クロマグロと同列に資源の枯渇を懸念しており、旬を重視し資源活用を徹底することを主眼としている

結婚・離婚・脱婚

www.daily.co.jp

LGBTタレント、一ノ瀬文香の離婚。吉本のタレントである彼女は松本人志が司会を務める番組に出演してたようなのですが、同じようにレズビアンタレントとして活動する、牧村朝子も「脱婚」と主張しつつ、フランスの婚姻関係を解消し、別居を選択をする事実上の「離婚」をしたわけだし、これで一番長続きしたのはLGBT活動家に否定的な人から「ビジネス婚」と揶揄される東小雪・増原裕子夫婦というのは実に含蓄がある結果だと思います。

というのも、「アニメージュ」という雑誌で人生相談の企画をもっていた富野由悠季*1から独身貴族の相談者から「30を過ぎても独身はおかしいのですか?」という相談が寄せられて、監督は「結婚は愛の末にするわけじゃなく生きるためにするのだ」と看破したことがありました。

kaito2198.blog43.fc2.com

(富野監督の指摘はこのブログを訪れた全ての人が一読すべき)

「生きるための結婚」というのであれば、東夫妻というのは「生きるために」結婚をしているわけで、そりゃ長続きするのも道理だよなと思ってしまうわけです。

同性婚憲法の矛盾

さて、同性婚について木村草太は幸福追求権から実現しなければならないと主張しています。仮にそうだとしたら憲法24条でははっきりと「同性」とあり素直によめば憲法の矛盾と言うべき状況であり、同性婚が幸福追求権を求めるために必要とすれば早急な改正が必要なはずです。

しかし、木村氏は「同性婚について実質的に何も言ってないから憲法24条はクリアされる」と主張されていますが、想定されてないから推し進めても良いと言うのであれば、法の抜け穴で違法スレスレの経済活動を行う企業を批判する資格は無くなります。江川卓氏も小林繁氏とトレードで巨人に入れることをせずにストレートに巨人に入団させなければならならなくなります。*2

もちろん同性婚を行うことが、同性愛者の人権確保に対して「緊急性・公共性・非代替性」があり、かつ憲法改正がままならないというのであれば憲法解釈の変更が成されるでしょう。

しかし、それは木村氏が散々集団的自衛権で批判した解釈改憲になりません。さらに氏はあえて触れていないようですし、若い活動家も同性婚が成立しないと悲惨な未来になると信じ込んでいる方も居るようですが、古くよりより養子縁組が容易な日本においては、吉屋信子を始め、多くの同性カップルが養子縁組を行っており、そこまでの緊急性を求めることが難しい状勢と言えなくもありません。

「生きるために結婚」をするカップルにとってはいつなるかわからない同性婚よりも一刻も早い法的な関係の認証が必要なわけで、それが仮に不本意な形であっても利用するカップルは数多いわけです。

しかし、現在の法解釈では一度養子縁組をすると例え離縁しても結婚は出来ない以上、同性婚にもそれが適用される可能性があり、そのような養子縁組をする場合担当者からそのような説明をされるケースがあるようですが、彼ら・彼女らの対策を議論しない同性婚というのは欺瞞そのものだと思うのですが、議論をされている様子がありません。

脱婚の意味とは

話を牧村氏に戻しますが、彼女はLGBT人権活動に批判的な人でも割と評判が良い方なのですが、「脱婚」と後述する「独立」の話を聞いて一気に幻滅しました。

彼女のブログより脱婚をした理由について引用します。

独立、脱婚、お引越しのごあいさつ【追記あり※別れてないし、いわゆる離婚でもないよ!】 | ゆりくれ** | タレント・文筆家 牧村朝子(まきむぅ)オフィシャルサイト

・・・フランスの結婚制度の利用も、一度止めることにしました。パートナーである彼女を深く愛しています。
だからこそ、結婚制度というものから一度離れようという、彼女の意思を尊重することに決めたのです。
・・“家”とか“戸籍”みたいなものから離れ、
ただ、愛する人と、あらためて、個と個の関係を築いていこう、という気持ちでいるのです。

円満なものかもしれないけど、どう取り繕っても法定婚を解消した時点で「離婚」であることには変わりませんよね。第一、フランスには戸籍という家族単位で国民を管理する制度は存在しません。最初から存在しない「戸籍から離れ」ってどういうことなんざんしょ。

さらに話は独立の話に及びます。彼女はおよそ1年半前に評論誌の「拝啓 LGBTという概念さんへ」というエッセイで「LGBTさんさようなら」と結びLGBTへの決別宣言をしています。それから1年半。独立した彼女はINIZONという会社と業務提携を発表しましたが、その会社が何をやってるのかと調べたら会社案内にデカデカと虹色の旗が掲げてあって

「こころ動く創造を for LGBTs」

どっぷりLGBT浸かってるやんけ!

そもそも独立まではあるとしても、芸能界は本人の実力×運×バックのケツモチという世界でどれかが0なら世に出られないような世界なんで、普通は業務提携と言えば元いた会社がその実質的な親会社とするのが一般的なのですが、LGBTで飯を食う会社と業務提携してるって元の会社*3と揉めたようにしか思えてなりません。

そもそも芸能界の契約のブラックさを「私がされたことじゃない」とエクスキューズして一般論化してるのですが本当は自分がされてたんじゃないですか?

結局「ありのままに」というお題目とは裏腹に彼女ですら世間体に雁字搦めに生きていかざるを得えず、「LGBTさんさよなら」といいつつLGBTに縋らないと飯を食えないというのは、なんとも皮肉な物だなと思います。

*1:(書くまでもない気がするが)アニメーション監督・『機動戦士ガンダム』シリーズ原作者

*2:江川事件。当時移動日として確保するために前年のドラフト指名選手プロ野球の球団との交渉権が、ドラフト前日には無効になっていたことに目を付けて巨人軍が江川卓と契約をした事件。

*3:あるいはそのケツモチ

 黒歴史にするには惜しい作品~ルパン三世風魔一族の野望

10月のアニメが余りに不作のせいで、最近配信のルパンを見てるのですが、その流れで黒歴史の風魔の一族にも興味が湧いてレンタルで見てみました。

ギャラの引き下げが原因とも、イメージチェンジのためとも、カリ城当時の山田さんの態度が気に入らなかったスタッフの意趣返しとも言われてますが、声優の交代劇が著しく作品の評判を下げる原因だし、私も古川ルパン?アホか?としか思えなかったんですが、古き良き80年代アニメのテイストという感じで、なかなか面白い作品です。未だにブルーレイが発売されてない作品ですが、これを黒歴史として埋もれるのは実に惜しい。

冒頭いきなりゲストヒロインと五ェ門の結婚が描かれるわけですが、28年後に制作された、4期冒頭のルパンとレベッカの結婚はおそらく本作のオマージュなのではないかと個人的には思うわけです。何せ作監=4期の総監督ですから。

次元が拳銃を使わなかったり、変装が無かったり、不二子にお色気要素がなくてアクティブでお茶目な感じになっていたりとお約束要素が取っ払われてて、80年代の軽いテイストのアニメには古川さんの演技は似合ってるし、新声優陣で五ェ門とルパンが一番良かったです。というか、風魔ルパンは古川さんのはまり役と言っても良いくらいで、おそらく山田さんや栗田さんがルパンを演じていたらそもそもならこの作品のノリは出せなかったのではないかとすら思えます。

当時のルパンはアニメージュのアニメグランプリの歴代ベストワンキャラクター(男性キャラ)部門で6~10回まで選ばれており、ちょうど今で言えば、SEEDとかギアスの続編が継続的に作られて、ある日続編で「若手に替えます。声優には断ってません」と言うような物でそりゃ火薬庫に花火を持って入るようなものなので、それが作品の評価を下げたのは返す返すも残念。

これが成功してたら、割と柔軟に007のように声優を替えていたんでしょうね。この件がトラウマになって、5年前の声優交替でもクリカンさんとコバキヨさんを残したり、ルパン制作陣は声優の交替にかなり臆病になったように思えるのですが。

近頃のアニメの主流は、実在の背景の再現で日伊合作の4期もイタリアの風景を忠実に再現してた(と思うし)、風魔路線を継承したアニメを水島努監督辺りで逆転裁判タイムボカンをやってる土曜5時半くらいに放送したら普通に楽しめるのでは無いでしょうか。

 

五輪のデザインの混乱を巡る雑感

五輪のデザインを巡って混乱が続いています。


佐野氏のデザインを擁護したら「デザイナー村」の工作員認定され、擁護意見を言えないような空気が蔓延し、ともすれば「悪魔の証明」やら「推定有罪」の欠席裁判が横行する現状はまるで原発事故後のエネルギー業界みたいな状況です。原発事故の時には電力会社側を擁護していたのに、今回の案件では魔女狩りをする側になる例が散見されるのは、人間の業の深さを感じざるを得ません。

それはさておき、この問題の発端は、盗作疑惑やら建設費に対する公憤よりも、「このデザインが嫌い」という素朴な感情が発端になっているように思えてなりませんが、国立競技場もエンブレムもどちらも、専門家による泥のなすりつけあいがなされ、専門性の高い分野に庶民感覚なる暴君が入り込み混乱の渦に巻き込み、結果その業界を不幸に貶める自体という点では酷似しております。

このような状況が続くことは誰も幸せにはしません。悪いのは舛添だという人がおりましたが、それなら森喜朗氏は組織委員会の会長なので、遙かに責任がある立場なのにエンブレム問題は何も発言しておりません。おそらくは、これ以上混乱が続いたらまた鶴の一声でエンブレムを撤回されるおつもりなのでしょう。

仮に森さんが撤回すれば「森さんの英断」として森さんの株は上がるでしょうが、1人のデザイナーのキャリアは間違いなくそこで終了しますし、自殺でもされたらそれこそ五輪への汚点です。私はデザインに関するJSCやら文科省の設定ミスがこの問題の発端なのではないかと考えております。

前衛的なデザインのコンテストではなく、全国民がステークホルダーとなるデザインに求められることは全ての国民に愛されるまでは行かなくても、全ての国民が納得する堅実なデザイン、どこからも文句が言われないデザイン。誤解を恐れずに言えば陳腐なデザインとも言えるでしょう。

国立競技場だって最初からゼネコンに任せたり、エンブレムもあまたの一流企業のロゴを手がける企業に任せていれば、彼らはツボやノウハウを抑えており前衛的な物は出来ていなくても、国民の大多数が納得するデザインを作ることは可能だったでしょう。

日建設計執行役員の山梨知彦さんによると大型建築の設計において依頼主からは「デザインなんか間違っても凝らないでね。機能が満たされていれば良い」と言われ、いざ出来たら「デザインがないとつまらない」と言われる方が珍しくないのだという。だからこそ「デザインをしたたかに密やかに仕込む」の有能な建築家の条件なのだといいます。

まさにこれはデザインの世界全てに言えることではなのではないのでしょうか?デザインを前面に押し出すと叩かれるが、押し出さない本当に陳腐なデザインはつまらないと言われる。その微妙なさじ加減を文科省は誤ったように思います。

思えば、「選手村を水素エネルギーで」とか言ったり、国立競技場も多少難しくても日本の技術で実現をという話が合ったほどで、あくまでもスポーツの祭典であるはずの五輪が日本の技術や才能をアピールする場と文科省は考えてるとすればそれはとんでもない思い違いではないのでしょうか?

水素技術とデザインをアピールしたいなら仙台で万博の認定博をやればいい話で、野心を起こさずスポーツの祭典に徹することこそがアスリートファーストなのではないでしょうか?

同性婚と同性愛に関する違和感

昨今話題になっている。同性愛問題。同性婚が認められるなら認めても良いとは思うのですが、その一方でどうにもいろいろな違和感があります。

その一つはさまざまな恋愛が出来ない人への配慮の無さ

人権活動家は「多様な価値観を」というけどそういう人間に限ってその本心は実に狭量だったりするのですが、要するに人権活動家の考える世の中は、「性的指向に限らず全ての人が恋愛をして、その延長線で結婚をする社会」であり「全ての人が恋愛が出来る」という前提だと私は感じています。

その証拠に、「LBGT」と言いますけど、性欲や恋愛感情がないという人も性的少数者として扱われていますけど、彼らや彼女らのことはわずかに触れられている程度で、異性か両性かの違いこそあれど「恋愛は出来る」と言うことが前提になっているのです。

もっとも「L・B・G・T以外を軽視している」という批判があるのでLGBTsと言おうとか言う声もありますけど、同性愛への理解がない中高年層は横文字が苦手なんだし、「LGBTとは云々」とわざわざ説明をしないまでも、文字だけで大方の意味合いがわかる「性的少数者」じゃだめなのかとも思いますが、あの人達にはあの人達の都合ってものがあるのでしょう多分。

実際半分嘲笑されつつも、非モテだの恋愛できない人だのがクローズアップされたり、一生独身という人がこれだけ話題になっていますが、そういう人達は何故結婚しない(あるいはできない)のか。
もちろんそこには様々な事情があるでしょうが、恋愛には資本とスキルが必要で、それらが不足しているから恋愛が出来ない。恋愛が出来ないから結婚できないという人も少なからず居るはずだし、それには性的指向は関係ないはずです。

話題から逸れますが、そもそも「結婚は恋愛の延長線」というのもおかしな話で、以前雑誌でガンダムシリーズ富野由悠季監督が「結婚の意味がわからない」という投稿者に「結婚は恋愛のためにするのではなく、生活のためにするのだ。もし恋愛のためなら、昔のように親や家や生活の都合で結婚した人は全て不幸になっているはずだ」という回答をしていたことを思い出しますが、同性愛者に結婚をというなら同性愛者は恋愛結婚のみという前提辞退が差別的な話であり、お見合いのインフラも整備する必要があるのではないでしょうか。

まあ、いずれにしろ恋愛できない人(それどころか人口そのものが減っていますが)がこれだけ増えている世の中で「積極的に恋愛をする人」と見做されている人が数百万人オーダーで追加されるというのはそう滅多にないことで、恋愛をダシに商売をしている人には千載一遇のチャンスでしょう。

実際、「日本のLGBT人口」は「5%」とも「7%」とも言われていますが、それらの調査はなんと広告代理店の電通がしていますし、ビジネス雑誌では「解放されるLGBT市場」とまるで独裁者が倒れて、市場の改革開放が進むミャンマーのような発展途上国みたいなノリで紹介されています。

恋愛が出来ない人から見たら、同性愛の理解が進んだところで恋愛が出来る人という多数派が今さら追加されるだけに過ぎないのです。

更に言えば、同性婚の理由として「パートナーが事故や急病で意識不明になったり、死んでも一般人として参列しなければならないから同性婚が必要」と主張されていますが、それって「年を取らない事が前提」になっているように思えます。

もちろんそうしたリスクがあることは承知ですが多数の人は、老親の介護→自らの老い→老老介護→先立たれるというプロセスを経ることになるでしょうが、そうした老いへの備えというものを余りに軽視しているように思えてならないのです。

今の日本では同性愛カップルは養子には取れないし、認められたとしても圧倒的な売り手市場なので、「政治的あるいは社会的に望ましい」夫婦ですら養子に取れない実情がありますし、パートナー間で遺産を継承できても「遺産は最後は誰に継承するのか」というのが問題が重くのしかかっているのです。

だからするなという意味ではありませんが、老いや遺産問題は骨肉の争いになりやすいのに、どこまで真剣に考えてるのかが疑問なのです。

結局、同性婚はゴールではなくスタートでにすぎないという意識が余りに希薄に思います。

報知から出された新国立競技場見直し案は新たな利権の匂い

headlines.yahoo.co.jp

2020年東京五輪パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場(8万人収容、東京都新宿区)の建設費を抑えるなどした新たな建設計画案が民間会社から文科省などに提出されたことが14日、分かった。政府関係者が明らかにした。計画案では、座席の大部分を仮設席として建設し五輪終了後に座席数を削減するなど合理性を重視した建築方式。現行案での着工予定は10月だが政府内では、この計画を支持する声が広がっており今後、新計画案が採用される可能性が浮上してきた。

 新国立競技場の建設費を抑制するなどした新たな計画案は、民間会社から文科省複数の閣僚経験者、自民党幹部らに提出された。中身は競技場のイラスト、運営費の試算など具体的な内容で政府関係者はスポーツ報知の取材に「現行案からの大幅な変更となるが、問題山積みの現状を打開するには、この計画しかないと思う」と明言。「メイン会場の建設方法を変更する場合、国際オリンピック委員会(IOC)への説明や大きな政治決断が必要になる」とも述べた。

 新国立競技場文科省の外郭団体、日本スポーツ振興センター(JSC)が建設・運営を行う。現行案の新国立競技場は屋根部分の建設に高い技術が必要となり、資材の高騰などを受け、建設費は一時3000億円とされた。識者らから批判を受け、競技場の大きさなどを2割削減。現在は1692億円から2100億円と試算している。また、年間の運営コストについてもJSCは「約3億円の黒字」としているが、複数の政府関係者は「現行案のままでは、五輪後数年で赤字になる」と指摘。東京五輪の前後は“特需”で数億円の黒字になる可能性はあるものの、年間維持費の40億円がネックとなり、20億円以上の赤字が継続する可能性があると試算した。

 こうした状況を改善するために民間から新たな建設計画が提出された。この計画案によると、新国立競技場の収容人員8万人のうち、5万5000人分を仮設席として建設する。また、現行案では行われる屋根の開閉はやめて、客席部分のみを覆う形で設置するなど建設費用を削減する。東京五輪終了後には、この仮設席を撤去して別の競技場に再利用する。現行案の工期は約42か月となっているが、新計画案では約30か月で大幅に短縮される。

 仮設部分を撤去した新国立競技場は、約350億円をかけて5万人規模となるように座席を増築。その後、収益性の高い様々なスポーツなどのスタジアムとして活用する。競技場単体の建設費は、約600億円と現行案の約3分の1となり、運営費の削減も可能となる。増築費と合わせても約950億円で2100億円とされる現行案より1000億円以上もスリム化される。

 国立競技場は昨年12月から解体工事を行い、今月11日に地上の構造物などが完全に撤去された。現行案のままで建設するのか、今回提出された新計画案を採用するかは今夏をメドに最終計画案をまとめる見通しで10月からの着工を目指す。JSCは新国立競技場の現状について「建設計画を進めている段階。最終案を出すかどうかはまだ決まっていない」と説明した。

 


反ザハ案派にとってはこれは一発逆転のホームランともとれる内容で、反ザハ派とも言う人達の間では盛り上がってるのですが、細かなディテールが怪しいのです。今まで報知新聞しか報じられていないというのがまず怪しい点で、次に「競技場のイラスト、運営費の試算など具体的な内容」を出す「民間会社」というのは限られてくるはずですし、具体的なコンサルをするには相応のお金がかかってるはずです、一体このプランを誰が発注して、お金がどこから来てるのかが甚だ怪しいのです。

(追記)その後の報道で、仮設で8万人・常設は5万人、可動式屋根は五輪に設置など報知の報道と一致する報道が相次いでおり、2015/05/18時点では上記の報知新聞の案は事実であると判断いたしました。それを踏まえ下記をお読みください。

 

そもそも仮説といっても2週間だけ使えれば良いものじゃなく、ラグビーWCにも必要で8万人規模のスタジアムが必要で、一年程度存置して耐えうる強度が必要か、あるいはその都度ビディ足場の観客席を組む必要があるわけだし、JSCも妥協するにしても8万人スタジアムは妥協しないところだろうし、そもそもこの種の話を磯崎新が真っ先にキャッチしそうだし、いろいろ現実味が無いなと思っていたら、次の日にこのような続報が。

 

headlines.yahoo.co.jp

 2020年東京五輪パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場(8万人収容、東京都新宿区)で民間会社が文科省などに提出した建設費を抑制する新たな計画案に、五輪後に野球あるいはサッカーの専用スタジアムに改修する運営方法が盛り込まれていることが15日、分かった。政府関係者が明らかにした。計画案はすでに政府、文科省に提出され、検討が始まっている。現行案では、五輪後に野球を開催するプランはなく、新計画案が採用されれば、20年以降に新国立競技場プロ野球の開催も視野に入る。

 新計画案で示された運営方法によると、東京五輪後に新国立競技場の座席を大幅に削減し、5万人規模に改修する。その後、収益性の高いプロ野球、あるいはサッカーのいずれかの専用スタジアムとして使用する。

 五輪のメインスタジアムが特定のプロスポーツ専用スタジアムになった例では1996年のアトランタ五輪がある。大会後に大リーグ、アトランタ・ブレーブスの本拠地となり現在も使用されている。今回、提出された計画案もアトランタをモデルにしており、利用率を上げることで継続した黒字化を図り、建築費の回収も可能と試算している。政府関係者は「専用スタジアムとすることで、健全な収益構造を構築できる」と分析している。

 新国立競技場の建設・運営を行う日本スポーツ振興センター(JSC)が昨年8月にまとめた現行案では、五輪後もプロチームの本拠地とはしない方針で、サッカー日本代表戦やコンサートなどを行うとしている。一方で新計画案では、野球、サッカーの2大スポーツは年間を通じて定期的に試合が行われ、集客が見込めることから、関係者は「安定した賃料収入が確保できる」と話している。

 また、複数の政府関係者によると、現行案では年間約40億円の運営費などがネックとなり、長期間にわたり約20億円の赤字が継続する可能性があると試算。新計画案で集客力のあるプロ野球が開催されれば、収益の向上や建築費用の回収が早まることも期待できる。

 新計画案の建築方法は、8万人分の座席のうち5万5000人分を仮設席として設置。五輪終了後に3万人分を増築して5万人台としても合計で建築費は約950億円と試算、最大で2100億円とされる現行案より、1000億円以上の削減が可能となる。さらに今回、明らかになった五輪後の運営方法で一層の収益の改善が見込まれる。

  この記事を見て私はハッといたしました。ナショナルスタジアムとしては8万人というキャパシティは必要でも、プロスポーツの常打ち小屋として5万人というのは国民的人気チームのキャパシティとしては必要にして充分の規模です。Jリーグにおいて国立は中立地で聖地であるという建前上本拠地に置くクラブの存在を認めておりませんし、条件が良い場所に本拠地を移転すると言うことが(むしろメジャーリーグの方が活発に)行われている野球と違い、サッカーはホームタウンという意識が強い故に、既存の強豪クラブが地方を捨てるということはあり得えないでしょう。

 となると、有力視されるのは野球ですが、まず以前から巨人首脳陣は「天然芝の新スタジアム」が欲しいという趣旨のことを公言し、現状の東京ドームの4.6万人規模でもキャパシティが不足気味なのです。さらに株式会社東京ドームは読売グループではない上に2020年代には築30年を超え老朽化という問題が迫ってきます。

そこに国立競技場を採算と低コストを錦の御旗にした野球場にする話を出し、あわよくば株式会社読売巨人軍がスタジアムの指定管理者となれば、実質的に「自前の球場」が破格の値段で手に入ります。一連の報道はそのための観測記事なのではないでしょうか?

とは言っても、あの当たりは競技場の建て替えをきっかけに神宮球場秩父宮などの突き再開発が予定されていた地。仮に野球場となったら再開発計画も1からの見直しを迫られますが、どうも読売グループと森喜朗氏と確執のようなドロドロとした話が容易に想像できます。

工期が五輪に間に合わないという理由であればまだしも採算性や建設費という理由だけで見直すというのは、いかにもデフレスパイラル的な発想であり、文化立国を目指す我が国にはふさわしくないと思っております。低コストで好採算性を目指せというのであれば、ゼネコンに設計を任せれば良いだけの話で、アトリエ系建築家の存在意義を最初から否定するような物じゃないのでしょうか?

反ザハ派におかれましては「見直されるヤッター」じゃなく、文化国家としてふさわしい建設のあり方や利権でドロドロという自体が起こらないように注視してほしいものです。